展示品紹介

展示品紹介 No.56

土師の里遺跡 盾形埴輪

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主に盾面のようす。上下端などは欠けています 斜め横から見たようす。上に向けてすぼまります

 土師の里遺跡出土の盾形埴輪は、展示品紹介No21で中地階奥の半円形にずらりと円筒埴輪などが並んでいる最初と最後にあるものを紹介しました。今回紹介する盾形埴輪も1988(昭和63)年度の発掘調査で見つかった、別の埴輪棺に転用されていたものです。

 盾面は、中央部分の長方形の内側(内区)とその外側(外区)に分けられ、外縁部には端部に沿って沈線が施されています。外区は、沈線で上・中・下段に区画され、上・下段は上下方向の三角形(鋸歯文)、中段は左右方向の三角形が描かれ、三角形の内側には入れ子状に三角形が描かれています。外区と内区とは2条の沈線による長方形で区画されていますが、沈線の間に線刻は見られません。内区は、4方向の台形状に区画する沈線と内側の長方形に分けられますが、上下の横方向沈線のようなその区画を意識しているものと、内区中央の2条の沈線のような区画を横断するようなものとが見られます。

 盾面を貼り付けている円筒部は、上部がすぼまり、逆「ハ」の字状に開く口縁部を持ち、口縁端部は分厚くなっています。この点で、展示品紹介No.21の盾形埴輪とは円筒部の形が異なります。今回紹介している盾形埴輪はその特徴から、別の埴輪を上に載せていた可能性があります。具体的には、大阪市長原古墳群の高廻り2号墳や奈良県御所市室宮山古墳で推定されているように、冑形埴輪がその候補です。このような冑形埴輪が載せられるタイプの盾形埴輪の時期は、4世紀後葉から5世紀前葉頃と考えられています。本例は、盾面の表現がやや省略傾向にあり、その中でも新しい5世紀前葉頃のものと考えられます。

展示品紹介 No.55

伽山(とぎやま)古墓 銙帯(かたい)(革・銀製)【復原模造品】

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写真奥側が伽山古墓の復原模造品、
手前は土師の里遺跡の復原模造品です
奥側の伽山古墓例は銀製、
手前の土師の里遺跡例は石製(石銙)です

 伽山古墓の銀製銙帯・鉄製鈴付き刀子出土状況については、展示品紹介No.34で取り上げましたが、今回はその銙帯(革・銀製)の復原模造品を取り上げます。なお、銙(か)とは帯についた金属板のことですが、石製のものもありそれは石銙と呼ばれます。出土した銙帯は、その出土状況から、遺体に装着された状態だったと考えられ、純銀製の鉸具(かこ)1点、巡方4点、山形巡方6点、鉈尾(だび)1点で構成されています。なお、鉸具はバックルに当たる部分で、これとは帯の逆側の鉸具に差し込む先端部に鉈尾があります。巡方は、四角形の帯表面を飾るものの一種です。山形巡方は、巡方の上側が丸みを帯びた山形をしているものですが、丸鞆と呼ぶ意見もあります。これらは、鉸具・山形巡方・巡方・山形巡方・山形巡方・山形巡方・山形巡方・巡方・巡方・山形巡方・鉈尾の順で配列されていたと考えられ、復原模造品もこの順番です。類似する組み合わせは、高槻市岡本山古墓群の木棺墓1でもみることができます。材質が青銅、山形巡方が丸鞆との違いはありますが、点数も同様で、復元される配列順序も共通しています。

 銀製の例は、国内でほとんど出土がなく、貴重な資料です。

展示品紹介 No.54

紫金山古墳 方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)

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紫金山古墳竪穴式石室模型(1面だけ離れて置かれているのが方格規矩四神鏡です)

 当館常設展示室の「竪穴式石室の世界」では、大阪府茨木市にある紫金山古墳の副葬品を展示しています。紫金山古墳は、墳丘長110mの前方後円墳で、後円部墳頂からは未盗掘の竪穴式石室が発見されました。石室は、粘土床の上に置かれた木棺を覆うように造られており、棺の内外からは銅鏡・腕輪形石製品・貝輪・鉄製武器類・鉄製農工具・玉類など数多くの副葬品がみられます。

 今回取り上げる方格規矩四神鏡は木棺内、特に遺体頭部付近に納められていたと考えられ、棺外に納められていた三角縁神獣鏡や勾玉文鏡などの他の銅鏡とは明らかに区別されています。

 鏡は直径23.8cmで、中心部に隷書体で十二支が配され、内区には四神や猛禽がみられます。また、内区外周には「新有善同出丹陽。(中略)尚方御竟大毋傷。(後略)」の七言九句の銘文がみられます。この銘文は、「新」という王朝が「丹陽」産の「善同(銅)」を用い宮廷御用品である「尚方」の「御竟(鏡)」を作ったことを謳っています。

 「新」は漢(前漢)の元帝の皇后の甥である王莽が興した王朝で、紀元8~24年という短期間に存在し、再び漢(後漢)によって統一されます。『漢書』王莽伝上には、「東夷の王、大海を渡りて国珍を奉ず」とあり、海を渡ってくる東夷を倭人と考えれば、王莽の施策による朝貢の記述と考えられます。すなわち、紫金山古墳の方格規矩四神鏡は、倭による新への朝貢の返礼として、宮廷で用いられる最高級のものが楽浪郡を経てもたらされたと推定されるのです。

 また、この鏡は、他の4面の方格規矩鏡とともに成分の鉛同位体比が分析されています。その結果、4面の鏡の同位体比は同時期の「内行花文鏡」や「貨泉」に比べて狭い範囲に分布するため、同一地域の原料を用いて製作された可能性が高く、方格規矩鏡が最高級の鏡であることの裏付けと捉えられます。

 方格規矩四神鏡の遺体頭部への副葬は、1世紀初めの「新」王朝の時代にもたらされた鏡が、紫金山古墳の築造された4世紀前半まで大切に伝世されたことを物語っています。

展示品紹介 No.53

交野東車塚南古墳 短甲形埴輪

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短甲部分。観察しにくいですが、
鉄板を表現した中央部分にも沈線があります。
草摺部分。
正面の残存部分はあまり多くありません。

 今回紹介するのは、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」の形象埴輪の中にある短甲形埴輪です。この埴輪は、交野市の交野東車塚南古墳(車塚古墳群第3号古墳、5世紀前葉頃)から出土したものです。この古墳は、直径22.4mの円墳ですが、周囲には一辺約27mの方形の周溝がめぐる、少し変わった形の古墳です。

 この短甲形埴輪は、短甲と草摺を一体造りで表現したもので、短甲は長方形板革綴短甲、草摺は革製のものを模したと考えられていますが、横矧板鋲留短甲を模したとの意見もあります。短甲前胴部分の正面中央には縦方向の2本の沈線による表現があり、引合板を表したものと考えられ、実際の短甲に見られるものです。ただし、実際の長方形板革綴短甲の場合、帯金と呼ばれるフレームのようなものと横方向につなげられた長方形版が、上下交互に見られるのですが、後胴(展示状況では見えませんが)の一部以外に見られないので、省略気味といえます。また、観察しにくいのですが、長方形版の表現も、前胴部分が縦方向に長くなっているようです。なお、はがれているところもありますが、表面には円形の粘土が沈線の交差部などに貼り付けられており、綴革の表現と考えられますが、鋲の表現とする意見もあります。

 草摺部分は、縦方向の3~4本の沈線が9方向に描かれていると考えられ、横方向には7本の沈線による8段の表現があります。前者の内側は無文ですが、後者各段の内側には「く」の字、もしくは逆「く」の字状の表現があります。これは刺繡の表現と考えられていますが、忠実度は低いようです。

展示品紹介 No.52

太平寺6号墳 家形埴輪

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正面からみたようす。
石膏による復元が多いです。
上からみたようす。

 太平寺6号墳については、No.47蓋形埴輪を取り上げましたが、それと近接して出土したのが、今回取り上げる家形埴輪です。6・7号墳で共有する周溝からみつかったものとされ、詳細な出土位置は不明ですが、蓋形埴輪の南約2m、6号墳墳丘よりで出土しています。

 この家形埴輪は、入母屋造の屋根部分で、壁部分はほとんど残っていません。屋根の表面に、線刻や突帯などの表現はありませんが、各所には小さい穿孔がみられます。なお、展示状況では確認できませんが、壁と屋根の接合方法に特徴がみられます。これは、壁の上端部全体で屋根を受ける普遍的な接合法ではなく、壁の上端部の外寄りの端部で屋根を支えるものです。前者だと、壁から連続的に屋根を作るという方法が推定できますが、後者の場合、壁の上に別で作っていた寄棟部の下屋根を接合するという方法が推定できます。このような接合法は、5世紀後半から6世紀の西日本にみられるとの指摘があります。なお、妻側に大棟やそれを支える斗束の表現はみられません。

展示品紹介 No.51

河内国大税負死亡人帳(かわちのくにたいぜいふしぼうにんちょう)【複製品】

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 展示品紹介No.50で取り上げた「河内国銅印」の上に、3通の文書が展示されています。その左端が「河内国大税負死亡人帳」(断簡 レプリカ)です。「銅印」はこれに残る印影から復原したものです。大税(正税とも)とは各国に蓄えられた稲のことで、国はそれを人々に貸し付けて秋に利子を付けて返させ(これを出挙と言います)、それを様々な経費に充てました。ところが借りた人が死亡すると返済は免除されます。当該文書はそうした人々を書き上げた帳簿の一部、7人分です。どこの国なのか残っている文面には書かれていませんが、「河内國印」が押されているので、河内国のものとわかります。しかし郡・郷名は不詳です。

 1行目には「戸主伊我臣入鹿戸物部刀良年陸拾壱 税肆拾束 死天平九年六月十日」と書かれています。まず伊我臣入鹿(いがのおみいるか)という戸主の名があり、次にその戸口(ここう)である物部刀良(もののべのとら)と書かれます。彼が負債がありながら死亡した人です。年齢と借りた税(稲)の量は難しい字で示されます。年齢は61歳、借りた税は40束(そく)です。数字の書き換えを防ぐために、一、二、三、四、五…を壱、弐、参、肆、伍…などと書くのです。死亡日の記載から、本文書は天平9(737)年度のものとわかります。ただし死亡日は7人中5人が10日で、あとは5日と15日であり、とても事実とはみられません。

展示品紹介 No.50

河内国銅印(かわちのくにどういん)【復原模造品】

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「役人の机」展示のようす。 河内国銅印【復原模造品】

 第1ゾーン「文字の時代」のところにある飛び出ているケースの役人の机(硯・水差・筆・刀子・木簡)の上に「河内国銅印」があります。

 律令国家の時代、紙の公文書には「公式令(くしきりょう)」に使用すべき種類や大きさなどが規定された公印が押されていました。戸籍であれば記載された事項の上に国印が押されたほか、継ぎ目などにも押されていました。古代の印章については、伝世品などが知られているほか、発掘調査などで数多く出土しています。しかし、伝世品については年代比定なども確定しえない場合がほとんどです。多くの場合は、各種の文章に押された「印影」だけが資料です。

 この「河内國印」と彫られた銅印は、「河内国大税負死亡人帳(かわちのくにたいぜいふしぼうにんちょう)」の断簡に押された印影をもとに復原製作されました。復元された印は1辺が約6.0㎝です。「公式令」では、諸国の印は方2寸とされています。藤原京や平城京から出土した当時の「ものさし」から、当時の1寸は約2.92㎝と考えられています。印の文字は、「國」と「印」の字形が独特なものを持つ中国六朝の「篆書(てんしょ)」に近いものです。印の素材は、出土銅印の分析結果や『延喜式(えんぎしき)』に材料が記されていいることから、銅と錫、鉛を用いた青銅が用いられたことが分かっています。形状については、出土銅印や出土した鋳型などを手掛かりとして復原したものです。

展示品紹介 No.49

蕃上山(ばんじょうやま)古墳 家形埴輪

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展示のようす。全体的に縦長気味です。 屋根の頂上の各種表現。

 蕃上山古墳については、No.1で男子人物形埴輪、No.25で巫女形埴輪、No.28で甲冑形埴輪、No45で蓋形埴輪を、それぞれ取り上げましたが、今回は家形埴輪を取り上げます。

 この家形埴輪は、常設展示室の中地階に降りてすぐのところ、形象埴輪がずらりと並んでいる初めのほうにあります。さて、この家形埴輪は寄棟造(よせむねづくり)の屋根で、屋根の上端には横倒しになった円柱形の堅魚木(かつおぎ)5点が表現されています。その堅魚木は屋根の頂上(大棟)から垂直に細長く出っ張った障泥板(あおりいた)と考えられる表現の上にあります。この出っ張りから少し下には横方向の2本の線刻があり、障泥板下端の表現でしょうか。障泥板の左右側面の両端には半円形の妻隠板と考えられる表現があります。障泥板を突き抜けているようにみえますが、枘(ほぞ)でつなぎあわせている表現のようです。この屋根上端の造形は、写実的な表現と考えられています。一方、屋根の軒先近くには部分的に線刻や弱い段差がありますが、明瞭な太い突帯状での表現ではありません。また、建物本体には、正面などに方形の開放部がありますが、全体的に閉鎖的な印象を受けます。なお、線刻などの表現はなく、下端は部分的に線刻や弱い段差がありますが、横方向に強く突出するようなものではありません。

 このような全体が少し縦長気味で、装飾に乏しい、寄棟造の屋根の家形埴輪の中でも、本例は最古段階の5世紀後葉頃と考えられます。家形埴輪は、形象埴輪の中でも早くに出現するので、初めのほうに展示していますが、その家形埴輪中では新しい段階にみられるようになる形です。なお、蕃上山古墳からは他にも入母屋造の家形埴輪も出土しているようです。

展示品紹介 No.48

林遺跡 蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)

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全体のようす。蓋形埴輪上側の立ち飾り部です。 左側が残りの良い立ち飾り部ですが、
左上が欠けています。

 今回は、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」に展示している形象埴輪の中から蓋形埴輪を紹介します。蓋形埴輪は、No.45で蕃上山古墳、No.47で太平寺6・7号墳出土例を紹介しましたが、今回紹介するのは林遺跡出土例です。蓋形埴輪のうち、真ん中の奥側に展示しているものです。

 林遺跡は藤井寺市に所在し、仲津山古墳の北西側、市野山古墳の西側に広がる遺跡です。5世紀前半から6世紀前半にかけての複数の小規模墳が検出されていますが、展示の埴輪の出土状況の詳細は不明です。

 展示品は、蓋形埴輪上部の立ち飾り部ですが、残存状況が比較的良く、上端の複数の突起とU字形の窪み、外側面の鰭状表現、内側に描かれた線刻などが確認できます。ただし、最も残存状況が良いところでも、一番外側の上部への突出部は欠損しています。同様な形や線刻のものは5世紀中頃に多くみられ、本例も同様な時期と考えられます。

展示品紹介 No.47

太平寺6・7号墳 蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)

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全体のようす。
後ろに林遺跡出土の立ち飾り部があります。
傘部のハケ調整の方向が上と下で異なります。

 今回は、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」に展示している形象埴輪の中から蓋形埴輪を紹介します。蓋形埴輪は、No.45で蕃上山古墳の出土例を紹介しましたが、今回は、太平寺6・7号墳出土例を紹介します。蓋形埴輪のうち、真ん中手前に展示している蓋形埴輪下部の傘部・円筒基部(台部)の資料が、太平寺6・7号墳出土例です。

 柏原市所在の太平寺古墳群は、1974年度の分布調査で平尾山古墳群太平寺支群とされた範囲内にあり、展示の埴輪は1980年の調査で太平寺古墳群6・7号墳の周溝からみつかったものです。6号墳が直径13mの円墳、7号墳が墳丘長22mの前方後円墳で、周溝の一部を共有しており、そこからの出土です。なお、この6・7号墳はそれぞれ、平尾山古墳群太平寺支群第6支群1・2号墳とも呼ばれます。

 蓋形埴輪下部の傘部・円筒基部(台部)の資料ですが、No.45で紹介した蕃上山古墳出土例のような、傘部の中ほどに突帯はみられません。ただし、その相当部分を境にハケ調整の方向を変えています。このように省略が進んでいることがわかり、新しい様相ということができ、類例からは5世紀後葉~6世紀前半頃と考えられます。

展示品紹介 No.46

長持山(ながもちやま)古墳 舟形石棺【複製品】

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小口の蓋と身に
それぞれ縄掛け突起が作られています。
左側のパネルに持ち運ばれた石材のサンプルと
産地が紹介されています。

 長持山古墳は、藤井寺市道明寺に所在した径40mの円墳です。允恭天皇陵古墳(市野山古墳)後円部南の外堤に接して築かれた陪冢と考えられている古墳です。2基の埋葬施設が確認されています。1933年と1946年、1980年に調査が行われています。

 近つ飛鳥博物館に展示されているのは、1号石棺で、周囲には河原石を積み上げた竪穴式石室が残存していました。竪穴式石室内の石棺周囲からは、多数の遺物が積み重なって出土しています。当館常設展示の挂甲〔復原模造品〕一式もその一つです。1号石棺は、熊本県菊池川流域産と考えられている舟形石棺です。阿蘇山の噴火でできた阿蘇溶結凝灰岩で作られています。急傾斜の屋根の形をした蓋と舟底の形をした身からなり、身・蓋の小口に一対の縄掛け突起が作られています。

 当館展示にはありませんが、2号石棺は熊本県宇土半島の馬門石で作られています。ゆるやかな屋根の形をした蓋と四角い箱のような形の身でできています。縄掛け突起は、蓋の長辺側に二対の合計計四個つくり出されています。古墳時代後期に用いられた家形石棺の祖形を考えるうえで重要な石棺です。時期的には、1号石棺が先行して埋葬されたと考えられます。古市古墳群の陪冢に、遠く肥後(熊本県)から運ばれた石棺が見られることは、大王やヤマト王権の権威を見ることができるのではないでしょうか。

展示品紹介 No.45

蕃上山(ばんじょうやま)古墳 蓋形埴輪(きぬがさがたはにわ)

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4点の蓋形埴輪のうち、
右端と左端が蕃上山古墳出土です。
右端の立ち飾り部
わずかに線刻がみられます。
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左端の傘部
中ほどは線刻ではなく突帯が付されています。
右端の傘部
中ほどの突帯は幅広です。

 今回は、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」に展示している形象埴輪の中から蓋形埴輪を紹介します。蓋形埴輪は、形象埴輪の中でも武器や威儀具などの器物をかたどった器財形埴輪の中でも代表的なもので、貴人にさしかける傘をかたどったものと考えられています。

 藤井寺市所在の蕃上山古墳は、展示品紹介No.1で男子人物埴輪、No.25で巫女形埴輪、No.28で甲冑形埴輪を取り上げており、当館の形象埴輪を代表する古墳です。蓋形埴輪は、後円部の北・東・南の各地点で出土したと報告されています。

 蓋形埴輪は、下部の傘部・円筒基部(台部)と、そこに挿入された上部の立ち飾り部で構成されています。立ち飾りは、四方向に飾り板が作り出され、その上端に切り込みが施されたり、複雑に凹凸を呈したりする場合があります。また、飾り板それぞれの内側や外側の縁には、鰭状の突出部が表現される場合があります。展示の蓋形埴輪のうち、左右の端に展示しているのが蕃上山古墳から出土したものです。右側の立ち飾り部は残存状況が悪く、上端は復元であり、一部で外側への鰭の突出や、立ち飾り内外縁部に沿うような二重の線刻、その内側の弱くU字状を呈する線刻などが確認できますが、詳しいつくりはわかりません。一方、傘部は両方とも類似しており、中ほどと下の先端部に幅広の突帯が貼り付けられていますが、その中に布を張った表現を表した線刻や立体表現などはみられません。類例が5世紀中~後葉にみられるので、本例も同様な時期と考えられます。

展示品紹介 No.44

寛弘寺(かんこうじ)20号墳 円筒埴輪

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展示状況
口縁まで残っていません。
長方形の透かし孔は
少し丸みを帯びているようにみえます。

 寛弘寺20号墳は、河南町所在の寛弘寺古墳群の中の1基です。寛弘寺古墳群は、千早川と宇名田川に挟まれた丘陵上の、南北1.2㎞、東西0.7㎞の範囲に立地し、4世紀から7世紀までと長期間にわたる90基以上の古墳が確認されています。

 20号墳は、一辺約13mの方墳で埋葬施設は不明ですが、木棺直葬と考えられます。墳丘の北西側と南東側の周溝が確認できており、それぞれ3本ずつの円筒埴輪が、4.3m間隔で並べられていました。展示しているのは、墳丘南西側の中央でみつかったものです。本例は、口縁まで残っていませんが、ほかの円筒埴輪を参考にすると、残っているところからあと10~15㎝程上に口縁があり、突帯は4段か5段と考えられます。透かし孔は、下から2段目と4段目に長方形のものが、それぞれ正面からみて同じような位置にあり、同じ段のほぼ向かい合う位置に2方向あけられています。透かし孔のこのような形や方向、数は、本例の左隣に展示しているNo43で取り上げた萱振1号墳出土の鰭付円筒埴輪に類似します。本例に鰭はありませんが、段が違っても同じ方向に四角形の透かし孔があり、同じ段で向かい合う位置関係にあるという点は類似するといえ、時期もだいたい同じと思われます。ただし、同じ段の向かい合う位置がきっちり180度の位置ではなく、長方形の透かし孔も少しひずんでいるようにみえ、丁寧とは言えません。そのような新しい円筒埴輪を目指しつつも、間隔があきすぎにも思える樹立状況をみると、だいたい同じような時期でも地域色があるといえるのかもしれません。

展示品紹介 No.43

萱振(かやふり)1号墳 鰭付円筒埴輪(ひれつきえんとうはにわ)

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展示のようす。いずれもよく似ています。

 萱振1号墳出土品については、靫形埴輪を展示品紹介No.4で取り上げましたが、今回は鰭付円筒埴輪を取り上げます。常設展示室中地階の、円筒埴輪がずらりと並んでいる中でも、どちらかといえば初めのほうに展示しており、前期後半頃にみられる埴輪のひとつです。

 萱振1号墳は、八尾市北部に位置する一辺約27mの方墳です。府立八尾北高校建設に伴う発掘調査で確認され、現在は高校の敷地内に公園として整備されています。さほど大きくない古墳ですが、以前紹介した靫形埴輪をはじめ、盾形、甲冑形、家形など、種類が豊富で、かつ大型のものがみられる点が大きな特徴です。鰭付円筒埴輪は、20数点が、基部が埋まった状態で墳丘裾部でみつかり、それぞれの中心どうしの間隔は80㎝から1m程と推定されています。ちょうど、展示している3点の鰭付円筒埴輪の間隔と同じくらいです。

 出土した鰭付円筒埴輪は、向かって左・中央のような突帯が7段のものが主で、右の6段のものは多くありません。ただし、いずれも同じような高さに作る意図があったようです。透かし孔は、最下段、下から3段目、5段目に2個ずつ、鰭に対して90度の位置に開けています。最下段の透かし孔は左が円で、それ以外は半円です。また、胴部の透かし孔は長方形です。なお、中央のものには、最上段に小さい孔が開けられています。側面の鰭は、上端から一番下の突帯まで粘土板を貼り付けて作っており、その上端は水平なものが多いのですが、左のように、上端を斜めに切ったようなものもみられます。なお、この鰭は内部を完全にみえないようにしようとする意図の表れと考えられています。

 展示の3点を含め、萱振1号墳の鰭付円筒埴輪は、細部の違いはありますが、いずれもよく似ているということができます。これらは、奈良盆地の大型墳などにもみられる新しいタイプの円筒埴輪であり、その時期は古市古墳群最古の大型前方後円墳である津堂城山古墳よりも古いと考えられます。これらから、中河内における新興勢力の存在をうかがい知れるのではないかとの意見もあります。

展示品紹介 No.42

塚廻(ツカマリ)古墳 漆塗籠棺・榛原石磚(はいばらいしせん)

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塚廻古墳横口式石槨模型 漆塗籠棺・榛原石磚の展示状況
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榛原石磚です。 漆塗籠棺
籠の状況が漆の下から浮き出ています。

 近つ飛鳥博物館から南側の一須賀古墳群の丘陵を超えた南斜面に営まれた3基の方墳からなる平石古墳群があります。そのうちの1基で最後に築造されたと考えられているのが塚廻古墳で、3段築成で前面に幅80メートルにも及ぶ壇が取り付く平石谷最大の古墳です。

 埋葬施設は、花崗岩の切石を用いた横口式石槨で、棺を納める石槨部・前室、羨道からなっています。石槨には、奈良県宇陀郡榛原地方に分布する火成岩の榛原石を方形に加工した磚を敷き、その上に緑釉の棺台を置き、その上に漆塗籠棺が安置されていたと棺考えられます。榛原石は、遠つ飛鳥(奈良の飛鳥)、近つ飛鳥、両地域の終末期古墳や寺院などで用いられています。

 漆塗籠棺は、古墳時代終末期の飛鳥時代にみられるもので、樹皮などを編んで作った方形の籠の表面に漆を塗って棺としたものです。平石古墳群では、シシヨツカ古墳、アカハゲ古墳でも漆塗籠棺の破片がみつかっています。このほかにも飛鳥時代には、漆を用いた棺には、型に布を重ね漆で固めた夾紵棺、木棺に漆を塗った漆塗木棺などが知られています。このなかでも漆塗籠棺は、最も早く作られて棺と考えられています。

展示品紹介 No.41

小具足塚古墳 盾形埴輪

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埴輪の全体です。
残存部分はあまり多くありません。
上側です。直弧文が描かれているようです。

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」の中の形象埴輪のうち、今回紹介するのは、小具足塚古墳の「盾形埴輪」です。小具足塚古墳は、古市古墳群北東にある大型前方後円墳、市野山古墳(允恭天皇陵古墳)の南西に位置し、その外堤に接する可能性があるものの、詳細は不明です。一辺20mの方墳と推定されています。この埴輪は、小具足塚古墳の南側に近接する箇所で、1984(昭和59)年度に行われた発掘調査でみつかったものです。

 この埴輪は、上端や下端、円筒形の基部も残存しませんが、上端については類例をもとに、中央のU字形の刳り込みなども含め復元をしています。埴輪中央のくびれた箇所には矢羽根状の線刻が施され、上下にそれぞれ横長とそれよりも縦が長い台形状の形が二段に表現されていると考えられます。残りが比較的良い上側をみると、横長の台形とそれよりも縦が長い台形との間は、線刻で区画されており、下側も同様の表現と考えられます。また、上側の台形部分には、大きい×状の線刻と、その中の弧状の線刻が施されており、直弧文と呼ばれる独特の文様が表現されていると考えられます。このほかに、表面には数カ所に小さい穿孔がみられますが、その意図はよく分かりません。

 この「盾形埴輪」は、1931(昭和6)年に奈良県三宅町の石見遺跡からみつかった埴輪を標式とするので、石見型盾形埴輪と呼ばれます。ただし、この埴輪が盾を表現しているとの当初の考え以降、靫、儀杖・玉杖、幡などを表現したものとの各説が提出されており、近年では石見型埴輪と呼ばれることもあります。同様な埴輪は、古市古墳群では、軽里4号墳、白鳥2号墳、今井塚古墳、矢倉古墳などの古墳のほか、野中ボケ山古墳に近接する野々上埴輪窯跡からもみつかっています。他の例も含め、出土する古墳はいずれも5世紀後葉から6世紀前半頃の、比較的小規模なものである点が特徴とされています。形象埴輪の中では遅くに出現する埴輪であり、当該期の埴輪祭祀を考える上でも重要な資料の一つです。

展示品紹介 No.40

河内国分寺跡・衣縫廃寺(いぬいはいじ) 鬼瓦(おにがわら)

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左側の河内国分寺跡出土の鬼瓦 右側の衣縫廃寺出土の鬼瓦

 今回取り上げるのは、常設展示室第一ゾーンの四天王寺式伽藍復原模型の、向かって右側に展示している2点の鬼瓦です。左側が柏原市河内国分寺跡、右側が藤井寺市衣縫廃寺から出土したものです。

 河内国分寺跡は、柏原市南東部、大和川南側の国分東条地区にあり、古くから東条廃寺などと呼ばれていました。昭和44年度の大阪府教育委員会による調査で、塔基壇の規模や構造などが明らかになり、展示の鬼瓦は、この際に塔跡北東隅北側からみつかったものです。後世の攪乱層からの出土ですが、塔の北東隅の棟に使われていたと考えられています。

 衣縫廃寺は、藤井寺市東部、国府遺跡北東にあり、古くから塔心礎の存在が知られていました。昭和45年度の大阪府教育委員会による調査で、この塔心礎がもともとの場所から動いていることや、塔跡の規模などが明らかになりました。展示の鬼瓦は、この際に、塔跡東側の調査区の、瓦が堆積していた層からみつかったものです。

 右側の衣縫廃寺出土の鬼瓦は、右半分ほどが復元ですが、鬼のほぼ全身を表しています。鬼は顔を正面に向け、蹲踞した姿勢ですが、足の表現はわずかにみられるのみです。中央の半球状の盛り上がりは腹部、その上に巻き毛状に髯、さらに口、小さい半球状の鼻、その両側に目が表現され、体の周りに巻き毛状の表現がみられます。この鬼瓦は、平城宮で出土する8世紀前半頃の鬼瓦の系統をひくものです。平城宮で出土する鬼瓦は、新しい時期になると顔面のみが表現されるようになります。

 これよりも新しい、左側の河内国分寺跡出土の鬼瓦は、左下側が一部復元ですが、下顎が省略された顔面が表現されています。周囲に珠文が配され、三角形状の眉、こぶ状の眉間、円形の目、鼻や口が表現されますが、耳はみられません。この鬼瓦は、先に記した平城宮でみつかる鬼瓦とは様相が異なるもので、南都七大寺に代表される周辺の寺院でみられる8世紀後半頃の鬼瓦の系統をひくものと考えられています。

 鬼瓦は、瓦の中でも多くはみつからない資料ですが、宮や周辺の寺院とのかかわりをうかがうことができる資料の一つといえます。

展示品紹介 No.39

大園古墳・土師の里遺跡 鶏形埴輪

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展示のようす。 左手前の埴輪。線刻による足の表現。
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右奥の埴輪。
羽はわずかに盛り上がる程度です。
左奥の埴輪。体部の造形は省略気味です。

 今回は、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」に展示している形象埴輪の中から鶏形埴輪を紹介します。4点の鶏形埴輪が展示されており、左手前が高石市大園遺跡、それ以外が藤井寺市土師の里遺跡からの出土です。鶏形埴輪は、動物形埴輪の中でも早い段階に出現する埴輪です。

 左手前は、大園古墳の南西約100mの調査区でみつかったものですが、大園古墳に伴うと推定されています。大園古墳は、墳丘長約47mの前方後円墳もしくは帆立貝形墳で、5世紀末~6世紀初頭頃の築造と考えられています。埴輪は頭部を欠きますが、頸部にみられる線刻は、鶏形埴輪にみられる特徴です。羽は立体的で線刻がありますが、足は立体ではなく線刻での表現です。

 土師の里遺跡出土の3点は、三ツ塚古墳東端の八島塚古墳から南へ約100mの調査区でみつかったものです。この調査区の北東には直径約80mの円形の地割が残り、「塚穴」という小字名が残ることから、古墳(土師の里6号墳)の存在が推定され、それに伴うと考えられています。

 右手前の頭部には、右側に眼の表現と考えられる小さい穴があり、その左横に耳羽の表現と考えられる中央がくぼんだ粘土の貼り付けがみられ、頂部には鶏冠があるものの、肉髯は残っていません。

 右奥は頭部を欠く資料で、羽は線刻が施されていますがわずかに盛り上がる程度です。足は表現されていません。体部と台部の境目はあまり明瞭ではない突帯です。

 左奥は全体の形状がわかる資料ですが、体部に羽の立体的な表現はなく、線刻もみられず、足も表現されていません。また、頭部に眼が表現されているものの、耳羽はありません。ただし、肉髯と思われる造形がみられます。頂部にははがれた痕跡があるので、鶏冠が貼り付けられていた可能性があります。全体的に雑な作りですが、体部と台部の境目は明瞭な突帯です。

 比較的丁寧な造形から省略気味の造形までのバリエーションがみられ、こういった様相は、5世紀後半から6世紀前半にかけてみられると考えられています。

展示品紹介 No.38

美園古墳 壺形埴輪

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展示のようす。

 美園古墳については、展示品紹介No.8で家形埴輪を取り上げましたが、今回紹介するのは、同じ美園古墳から出土した壺形埴輪です。常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」に展示しており、展示品紹介No.35で取り上げた御旅山古墳出土底部穿孔壺形土器の、向かって右隣にあります。

 美園古墳からは、壺形埴輪が20点以上出土しており、全体の形がわかるくらい残存状況が良い3点は、展示品紹介No.8の家形埴輪と共に国の重要文化財に指定されています。展示されている3点は、重要文化財に指定されているものではなく、口縁部と体部の接合部がありませんが、おおむね全体の形状をうかがうことができます。高さは53~60㎝で、朝顔形埴輪と同じような大きく開く口縁部で、頸部に突帯をめぐらしています。体部は上半に最大径があり、肩が張り、底部にかけてすぼまる器形です。底部は抜けており、あらかじめ穴が開いています。器面には、外面にハケ調整、内面にケズリ調整をみることができます。特に、向かって左端の壺形埴輪は器面の残りも良く、外面肩部のヨコハケが明瞭に観察できます。外面ハケ調整で肩部にヨコハケが施され、内面がケズリ調整である点は、同時期やそれより古い時期の土師器にもみることができる特徴です。また、黒斑がみられることから、野焼き焼成であることがわかります。

 壺形埴輪は、これより新しい時期になると、体部(筒部)上位の最大径付近に鍔状の張り出しを持つものがみられるようになります。当館ではその実例は展示していませんが、右隣に展示している鰭付円筒埴輪が出土した萱振1号墳でみつかっています。中・南河内では、この美園古墳以外にも、壺形埴輪を多く樹立する古墳がいくつか知られており、地域的な特色との指摘があります。

展示品紹介 No.37

青山2号墳 人物埴輪 足部・頭部

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奥側の人物埴輪の頭部。 手前側の人物埴輪の円筒基部。

 今回紹介するのは、常設展示室第二ゾーン「埴輪の世界」の、青山2号墳出土人物埴輪です。青山古墳群の展示品については、展示品紹介No.24で、青山5号墳の埴輪円筒棺を取り上げたことがあります。

 2号墳は、墳丘長33mの短い前方部をもつ前方後円墳もしくは帆立貝形墳で、5世紀後葉の築造と考えられます。墳丘は削平されており、発掘調査では馬蹄形にめぐる墳丘周囲の周溝がみつかりました。埋葬施設や副葬品は不明で、葺石は施されていなかったようです。

 奥側に展示している人物埴輪の頭部は、側面に剥れた痕がみられ、本来はみずらなどがはりつけられていたと考えられます。男性の埴輪です。頭頂部は全て残ってはいませんが、一部のヘラ描き表現から、前髪は左右に振り分けている髪型と考えられます。手前側のドーム型のものは、人物埴輪の円筒基部で、足先まで表現されています。ただし、これより上にどのような人物が表現されていたのかは不明です。なお、この埴輪は裸足ですが、2号墳からは履物をはいているものも出土しています。類似する人物埴輪の円筒基部は、奈良県橿原市四条1号墳や大阪府高槻市今城塚古墳などでも出土しています。しかし、それらには突帯が付されているのに対し、本例にはありません。

 なお、今回までに紹介した以外に、青山2号墳出土の円筒埴輪も、中地階奥で半円形にずらりと並ぶ円筒埴輪の中に展示されています。

展示品紹介 No.36

古室遺跡 冑形埴輪

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正面から。黒斑がみられます。 側面から。
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野中古墳 革製衝角付胄【復原模造品】

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」の埴輪は、No.1蕃上山古墳 男子人物形埴輪、No.4萱振1号墳 靫形埴輪、No.20津堂城山古墳 翳形埴輪、No.25蕃上山古墳 巫女形埴輪、No.26土師の里遺跡 大刀形埴輪、No.28蕃上山古墳 甲冑形埴輪で紹介していますが、今回は藤井寺市古室遺跡出土の冑形埴輪を紹介します。

 この埴輪がみつかったのは、大鳥塚古墳から北西へ50m程の調査区で、土坑の中から逆さになってみつかりました。大きさは幅27㎝、奥行29.6㎝、高さ22.3㎝で、前面の一部が欠けています。この埴輪は、錣(しころ)が付いた冑を表現したものと考えられます。前面には眉庇(まびさし)の表現が付いていたと考えられますが、はがれています。表面には4段にわたりはしご状の線刻が施され、革綴(かわとじ)の表現を含んでいると考えられます。類似する例に、堺市いたすけ古墳出土の衝角(しょうかく)付冑形埴輪がありますが、その場合、地板相当部分に三角形状の線刻がありますが、本例にはありません。このことなどから、本例が革製品を模した可能性が指摘されています。革製の衝角付冑は、藤井寺市野中古墳での出土が知られ、当館では第二ゾーン「B1.鉄製品の集中(鉄の武具)」で復原模造品が展示されています。なお、この革製衝角付冑は、革製の本体は残っていませんでしたが、頂部の三尾鉄や縁金、錣が残っていました。錣には、縁部に切り込みが施され、朱漆を塗ったリボン状の革紐を通し縫いして、覆輪状の装飾としていた可能性が指摘されており、本例のはしご状の線刻もそのようなものを模した表現かもしれません。

 また、この冑形埴輪は、大鳥塚古墳出土のものと類似することが指摘されており、同古墳で使われていた埴輪の可能性が考えられています。ただし、大鳥塚古墳出土例と細部の表現が異なるとの指摘もあります。

展示品紹介 No.35

御旅山(おたびやま)古墳 底部穿孔壺形土器

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展示のようす。 左側の底。
内側にめくれ上がるようになっています。

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」、中地階奥には半円形にずらりと円筒埴輪などが並んでおり、最初と最後にある土師の里遺跡出土の盾形埴輪については、展示品紹介No.21で取り上げました。今回取り上げるのは、最初の盾形埴輪の次に展示している、御旅山古墳出土の底部穿孔壺形土器です。

 御旅山古墳は、羽曳野市南部、石川右岸にあった前方後円墳です。墳丘長は約45mで、羽曳野市壺井に所在することから、壺井御旅山古墳とも呼ばれています。この古墳の南北には、近接する時期と考えられる古墳が数基みられ、小規模ながら古墳群を形成しています。この古墳では、後円部で確認された石櫃(いしびつ)から三角縁神獣鏡を含む多数の銅鏡が出土しています。これは江戸時代に盗掘されたものを再埋納したものと考えられています。なお、これらの銅鏡は、「A.竪穴式石室の世界」で展示されています。

 底部穿孔壺形土器は、前方部墳丘下段の基底部に沿うように、約50㎝の間隔で樹立されていたものです。展示しているのは2点で、左側の高さは約40㎝、胴部の最大径は約28㎝ですが、これらと同じようなかたちの資料が知られています。ただし、10㎝程高さが低い資料もあるようです。底の真ん中に孔が開けられていますが、内側にめくれ上がるようになっているところが特徴です。このような手法は、四国北東部地域の壺形土器・埴輪にみることができ、その影響を受けてつくられたものであると考えられています。

 なお、前方部側では上下二段の葺石が確認されており、上段側や墳頂では、円筒埴輪もみつかっており、円筒埴輪の方が格上とする意識があったようです。この底部穿孔壺形土器は、美園古墳出土壺形埴輪のように、底がなく、すっかり抜けているのではないことから土器として考えられそうですが、墳丘で列を成し立てられていたとされる状況は埴輪と同様であることから、これを壺形埴輪と呼ぶ意見もあります。なお、円筒埴輪ではなく壺が墳丘で多数樹立される例は少ないと考えられます。

展示品紹介 No.34

伽山(とぎやま)古墓 銀製銙帯(かたい) 鉄製鈴付き刀子(とうす)出土状況

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展示のようす。 長辺側木炭の上、
手前側に帯を飾った銙帯、奥に釘があります。

 常設展示室1階の第一ゾーン「近つ飛鳥と国際交流」の奥、「F2.古墳の終わり」のコーナーに展示しているのが、今回紹介する伽山古墓の復元展示です。伽山遺跡は、当館から北西約1.5㎞に位置し、弥生時代の竪穴建物跡や、古代の掘立柱建物などが確認された遺跡です。伽山古墓は1981(昭和56)年度に行われた発掘調査で確認されました。

 古墓の墳丘はほとんど残っていませんでしたが、わずかに残っていた墳丘から版築により構築されていたと考えられています。埋葬施設は、凝灰岩の切石(短辺に3点、長辺に5点)による石槨で囲われた内側(長辺2.65m、短辺1.63m)に木棺を納めたものです。石槨に底石はなく、墓壙の底に凝灰岩の砕石と木炭を薄く敷いた上に木棺を置き、石槨との間を木炭で充填していました。なお、天井石はありませんでした。また、木棺は残っていませんでしたが、鉄釘がみつかった位置から、短辺が約60cmと推定され、鉄釘に残る木質から木の厚さは約3cmと考えられています。棺内と推定される位置からは、全国的にもまれな例である銀製の銙帯(かたい。ベルトのこと)と、鉄製鈴付き刀子がみつかっています。銙帯の帯革は残っていませんでしたが、丸鞆(まるとも)・巡方(じゅんぽう)などが付いた状態の模造品が、向かって左側の展示ケースに展示されています。

 模型では、埋葬施設の長辺の約半分が表現されています。奥には石槨の短辺の3点の切石、左右には長辺の切石5点の半分が復元され、その内側のガラスケースは木棺の長辺の約半分を表現しています。ガラスケースの外側、つまり木棺外側には木炭が約5cm敷かれていますが、本来はもっと高く、切石や木棺の上端部までありました。ガラスケースの内側(木棺内側)の奥を中心にみられるのが木棺をとめていた鉄釘です。また、手前側には銀製銙帯や鉄製鈴付き刀子がありますが、全体的に黒っぽいので、少しみにくいかもしれません。

 この墳墓の年代について、土器など時期を示す資料の出土はないものの、石槨の構造や凝灰岩の使用が終末期古墳と類似することから8世紀初頭~前半との推定があります。ただし、9世紀初頭にみられる墳墓の中に、石槨ではなく木槨ではあるものの、木棺の外側を木炭で充填する点は類似するものがいくつかみられることから、凝灰岩石材の利用をその産地に近い地理的な要因と考え、8世紀末~9世紀初頭と推定する見解が提出されています。古代の墳墓を考える上で重要な資料です。

展示品紹介 No.33

一須賀(いちすか)O-6号墳組合せ式家形石棺

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短辺側。右奥がO-5号墳出土状況再現。 長辺側。

 第二ゾーン内「b.古墳造営のムラ」の「b2.石棺」のコーナーについては、展示品紹介No2で前塚古墳出土長持形石棺、No11で安福寺石棺複製品を取り上げましたが、今回は一須賀古墳群でみつかった組合せ式家形石棺を取り上げます。

 この石棺がみつかった古墳を含むO支群は、博物館建物の北から東側の尾根上に位置する支群で、この中の発掘調査が行われた古墳のひとつが今回取り上げるO-6号墳です。蓋が奥壁近くに長辺を平行させ、裏返しの状態で出土し、身はその手前、奥壁側からみて右側に寄った側壁近くで長辺を玄室の長辺に平行させて出土しました。蓋は、長さ2.15m、幅1.25m、身は、長さ2.2m、幅1.04mで、身の側石は一部が残るのみでした。出土遺物などから、この古墳は6世紀末頃に築造されたと考えられています。

 家形石棺には、一石をくりぬいてつくった刳り抜き式石棺と、複数の石材を組み合わせてつくった組合せ式石棺が知られ、製作の手間などから前者が上位であったと考えられていますが、一須賀古墳群でみられるのは、いずれも後者の組合せ式石棺です。このO-6号墳石棺の底石は、3つの石材を組み合わせています。石材は二上山産の凝灰岩が使用されています。

 なお、同じO支群では複数の古墳で石棺が確認されています。O-5号墳でみつかった石棺は、展示品紹介No14で取り上げた、出土状況再現で展示されているので、すぐ隣にあります。底石の長さは、O-5号墳の方が少し短いのですが、そちらにはない蓋石をイメージしやすいのではないでしょうか。また、O-4号墳でみつかった石棺は、風土記の丘管理棟で展示していますので、そちらもご覧いただければと思います。

展示品紹介 No.32

余部日置荘(あまべひきしょう)遺跡 木製叩き具・当て具

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叩き板
(身部に刻み線があり、中央がやや窪んでいます)。
当て具
(身部が年輪に沿ってすり減っています)。
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叩き目文の見られる須恵器片。 同心円文の見られる須恵器片。

 常設展示室の中地階、「開発と技術」のコーナーに今回ご紹介する「叩き板」と「当て具」が展示されています。これらは、土器を製作する際に用いられた道具です。成形された土器の内側を当て具で押さえ、外側から叩き板で叩くことで、器壁を叩き締めます。須恵器生産では轆轤が用いられていましたが、基本的には粘土紐を積み上げ器壁を整えたうえで、叩き板・当て具で器壁を叩き締めて成形するとともに、焼成中に粘土内の空気が膨張して爆発するのを防ぐなどの目的を持っていたと考えられます。

 展示品は、大阪府堺市の余部日置荘遺跡から出土したものです。余部日置荘遺跡は、羽曳野丘陵と陶器山丘陵に挟まれ、西除川によって形成された谷底平野から低位段丘に立地しています。叩き板と当て具は、遺跡西部に位置する谷の底部から検出された河川跡から出土しました。近くには古墳時代後期(6世紀中頃)に須恵器の生産を行っていた窯が見つかっており、そこで使用されたものと考えられます。

 叩き板(写真左側)は全長31.7cmで、先端から約11cmが幅9.6cm、厚さ3.0cmの板状になっています。スギの柾目板を用いて一木造りで成形され、板状の身部には木目に直交する線が42本刻まれています。また、使用によるものか、身部の中央がわずかにすり減っています。

 当て具(写真右側)は先端が径10.8×10.0cmの傘状で、全長14.7cm、柄の長さは10.8cmで柄は傘状の身部と25°の角度をもって伸びます。コウヤマキの心持材を用いて一木造りで成形されています。9条の同心円が刻まれています。身部中央は、年輪の柔らかい部分がすり減っており、使用によるものと考えられます。

 遺跡などで出土する須恵器には、表面に叩き目文、内側に同心円文が見られるものが多くありますが、それらは展示品のような道具によってできたことが分かります。日本列島では、これらの工具を用いて、須恵器の成形に平行叩き目や同心円文(青海波文)が施されました。これらは、朝鮮半島の陶質土器に同様の痕跡を残すものが見られますが、朝鮮半島では同心円文だけでなく多様な文様の工具が用いられていたことが分かっています。日本列島の初期須恵器工人を考える重要な資料です。窯跡からは、多くの失敗品や不要となり捨てられた道具が見つかります。当時の人々には要らなくなったそれらの遺物のおかげで、私たちは須恵器づくりの具体的な様子を知ることができます。

展示品紹介 No.31

小島東遺跡 製塩土器

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脚台のある製塩土器片。 コップ形の製塩土器片、非常に器壁が薄い。
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塩つくりの風景。

 今回は、中地階、王と民衆コーナーにある、薄くて、小さい土器片を紹介したいと思います。

 これは製塩土器といって塩づくりに使う土器です。古墳時代の塩作りは、海水から製塩土器と呼ばれる専用の土器を用いて行われていました。その工程は大きく3段階があり(壁面、イラストを参考にしてくださいね)、第1工程は採鹹(さいかん)で、海藻などを用いて海水の塩分濃度を高める工程です。第2工程は煎熬(せんごう)といって、濃い塩水を製塩土器で煮詰めて、塩の結晶を取り出します。第3工程は焼塩です。不純物を取り除き、運搬に適した塩にします。第2、3工程には炉が必要であり、製塩土器が用いられました

 大阪府岬町の小島東遺跡では、約35㎡と狭い調査区ながら、複数の製塩炉とおびただしい数の製塩土器片がみつかりました。遺跡の前面は海、背後には燃料である薪が得られる山といった立地で、まさに製塩に適した場所といえます。

 製塩土器の形状は時期によって変化し、また地域によっても異なる特徴がみられます。小島東遺跡では弥生時代末から古墳時代前半ごろには脚が付く製塩土器が用いられていましたが(写真1)、古墳時代の中頃には、器壁が薄く、コップ形をした丸底式の製塩土器が使用されるようになります(写真2)。その出土数は脚台式に比して圧倒的に多く、生産量が飛躍的に増加したことがわかります。塩は人々の生命を維持するにも必要なものです。加えて古墳時代の中頃以降、馬の生産や飼育が国内で行われるようになるなど、塩の需要はさらに高まったものと考えられます。大量生産を可能とする専業的な製塩活動にはヤマト王権の関与といったことも指摘されており、小さな製塩土器片ながら、政治動向をも反映するものとも言えます。

展示品紹介 No.30

伝安閑天皇陵古墳 カットガラス碗【復原模造品】

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精巧な復原品

 常設展示室に入ってすぐに目に入る、第一ゾーン「近つ飛鳥と国際交流」の「B1.倭の五王の品々」のコーナーには、多くの復原模造品が展示されていますが、その中のひとつが今回紹介する、伝安閑天皇陵古墳出土カットガラス碗の復原模造品です。原品は、江戸時代に墳丘の崩れた部分から出土したと伝わり、現在は重要文化財として東京国立博物館で保管されています。

 出土したと伝わる安閑天皇陵古墳(高屋築山古墳)は、古市古墳群で最後に築造されたと考えられる大型前方後円墳です。墳丘長122m、後円部径78m、前方部幅100mを測り、前方部が大きく広がります。なお、中世には高屋城築城により墳丘が大きく改変されていることがわかってきています。

 古くから指摘されているように、本例の原品は、メソポタミアからイラン北西部にかけての地域で、5~6世紀頃に製作されたものと考えられ、正倉院に伝わる「白瑠璃碗」と同形・同大とされています。ただし、かたちを作るときに生じた歪みや、それによる外面にみられる円形の切子の割り付けが不揃いになっているところが異なるとされます。なお、切子は底部にやや大きいものが1個、その周囲に7個、それより上4段には各段に18個ずつがそれぞれみられます。この切子の数は、正倉院の白瑠璃碗と同じです。

 製法は、溶かしたガラス素材を吹き竿につけ、半球形の型に当てながら吹いて膨らませた「型吹き製法」で、切子は、回転する砥石を押し当てて磨き上げたものと考えられています。復原模造品である本例も、この製法に基づいて作られています。

 ハイビジョンコーナーで放映している「古市古墳群Vol.4 古墳の埋葬施設と副葬品」でも解説されていますので、併せてご覧いただければと思います。

展示品紹介 No.29

大修羅(しゅら)・小修羅

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大修羅小修羅

 常設展示室の地階の一角は、大きなガラス張りになっており、重要文化財の「修羅」が展示されています。「修羅」とは、大きな石や木材をのせて運ぶソリなどの運搬具のことを言います。展示されている修羅は逆V字形をしており、尖っている方を頭部、左右に開いている方を脚部と呼んでいます。

 古市古墳群の仲津姫命陵古墳の南側には、八島塚古墳・中山塚古墳・助太山古墳という三基の方墳が東西に並んでおり、一括して三ツ塚古墳と呼ばれます。修羅は、八島塚古墳と中山塚古墳の間にある周濠から出土しました。修羅は、全長8.75mで、頭部を北に向けていましたが、その脚部端からも全長2.82mの修羅も出土みつかっています。このことから、大きい方を「大修羅」、小さい方を「小修羅」と呼び分けています。大修羅の東側に沿うように全長6.24mの棒も出土しており、修羅と共に用いるテコ棒と考えられます。オープン展示されている小修羅は複製品で、実物は藤井寺市立図書館に展示されています。

 大修羅とテコ棒は、アカガシの木を素材として作られています。アカガシは、日本で見られる木材の中でも堅く重いことで知られ、修羅やテコ棒など、重量物の運搬や、摩擦の大きな仕事をする道具の素材としては理想的です。しかし、大修羅に用いるような、二股に分かれた大型の木材では乾燥時に歪みが生じやすく、加工によって荷台となる平坦な面を作り出す必要があります。また、大修羅の頭部には、左右に貫通する穴が一つ、上面から側面に抜ける穴が左右一対見られ、脚部には同じく上面から側面に抜ける穴が三ヶ所にそれぞれ左右一対となって見られます。これらの加工を施すには、アカガシ材は堅く、多くの労力を必要としたと考えられます。
 小修羅はクヌギの二股に分かれた部分を用いて作られています。全体の作りは大修羅と同様ですが、加工は粗く、脚部に樹皮を多く残しています。

 三ツ塚古墳と修羅の年代は、出土状況や周辺で採取されている円筒埴輪から5世紀前半とみる説、助太山古墳の墳頂部に露出する凝灰岩が終末期古墳の横穴式石槨の一部ではないかと考えて7世紀とみる説があり、未だ確定していません。また、これらの修羅が運んだものは、石棺の石材などの重量物と推定されますが、明確な答えは出ていません。

 来館された際には、展示室地階で大修羅のスケールを感じてみてください。またその脇では、修羅の保存処理についての映像も見られますので、是非ご覧ください。

展示品紹介 No.28

蕃上山(ばんじょうやま)古墳 甲冑形埴輪(かっちゅうがたはにわ)


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甲冑形埴輪の全体。 冑部分のギザギザ状の線刻。
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草摺部分。残存部分は少ないです。 奥の埴輪の腰部分。斜め方向の線刻。

 蕃上山古墳の埴輪については、展示品紹介No1の男子人物形埴輪やNo25の巫女形埴輪でも紹介しているように、当館の形象埴輪を代表するものの一つです。今回は、このうちの甲冑形埴輪を紹介します。

 甲冑形埴輪は、冑や甲など身につける武具を表現した形象埴輪の一つです。主に腰から上の胴体部分を守る甲を表現した短甲形埴輪や、腰から大腿部を守る草摺を表現した草摺形埴輪などとして、個別につくられた埴輪もあります。蕃上山古墳出土の甲冑形埴輪は、円筒形台部の上に、冑から草摺までを連続して表現した埴輪です。

 上部の冑は、側面の中ほどにギザギザ状の線刻が施されていることから、三角板鋲留衝角付冑(さんかくいたびょうどめしょうかくつきかぶと)を表現したものと考えられます。また、冑から下の、後ろと左右に垂れ下がっている錣(しころ)も表現され、その表面にも冑部分同様のギザギザ状の線刻が施されていますが、これは、実物ではあり得ない表現です。冑の線刻の延長で、ついついギザギザの線刻を描いてしまったのでしょうか。なお、頂部には他の甲冑形埴輪の例と同様に特に飾り類は表現されず、円形のスカシが施されています。
 肩部には上腕部を守る甲である肩甲(かたよろい)をつくり、表面には短辺に平行する線刻が施されています。中央にはそれとは異なる縦方向の線刻があり、胸を守る頸甲(あかべよろい)の表現と考えられます。
 短甲には、冑部分にもみられたギザギザ表現のやや大ぶりなものが2条一組の横線の中に1段おきに施され、三角板鋲留の地板表現と考えられます。短甲の上端部には横方向の線刻に直交する縦方向の線刻が一部に残りますが、肩甲・頸甲の表現と重複する部分で、残存部分も少ないことから詳細な表現はよくわかりません。
 草摺は、残存部分が少ないのですが、横線で横長板を表現していると考えられ、それを切る2条一組の縦線は紐の表現でしょうか。短甲と草摺の境界部分は残存しませんが、奥に展示しているもう1点には一部が残り、斜め方向の線刻がみられます。短甲の縁、覆輪の表現かもしれません。

 円筒形台部の上に、冑から草摺までを連続して表現した甲冑形埴輪は、5世紀前半からみられると考えられています。本例は各部位の表現の省略化や形骸化がみられ、また本来の甲冑にはみられない表現もあり、新しい様相といえます。なお、同様に甲冑を表現する埴輪に武人形埴輪がありますが、両者は併存してみられることから、別々の意図を持ってつくり分けられる埴輪だったと考えられています。

展示品紹介 No.27

南花田遺跡 墨書土器

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展示状況。
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人物のアップ。
これがいつも展示している面の墨書です。
対面に描かれている人物のアップ。

 常設展示室1階の第一ゾーン「近つ飛鳥と国際交流」の奥、「文字の普及」のコーナーには、文字などを大写しした写真パネルとともに、いくつかの土器が展示されています。当館の展示品の中でも新しい時期の資料ですが、その中のひとつが今回紹介する南花田遺跡出土の墨書土器です。

 南花田遺跡は、南北方向の道路の難波大道と、大阪平野を東西に通る直線道路のひとつである大津道(近世の長尾街道)の交差点付近という交通の要衝に位置する遺跡で、官衙の可能性も指摘されています。この墨書土器は、1985(昭和60)年度に行われた発掘調査で確認された奈良時代の井戸(井戸109)からみつかったものです。墨書が描かれている土器は煮炊きに使われる甕ですが、煤などが付着していないことから煮炊きには使用されていなかったと考えられます。なお、表面の一部に黒い部分がありますが、これは土器を焼成した時に付いた焼きムラ(黒斑)です。

 人物の全身が描かれており、いつも展示している面の対面にも別の人物が描かれています。片方の人物は、向かって左向きの側面で、上衣、腰帯、袴の装束を描いた文官と考えられています。もう一方の人物は、坊主頭で装束は省略されて描かれ、前合わせの衣服でしょうか。墨書・墨画土器の一例ですが、この土器の上側に展示している他の墨書土器のように、顔を大きく描くことが一般的であるのに対し、人物の全身を描いている点は極めて特異です。

 この井戸の人面墨書土器がみつかったのと同じ層からは、ほかにも土師器皿の底部外面に「西」を墨書した墨書土器、斎串や口縁部を打ち欠いた須恵器長頸壺などがみつかっており、大祓(おおはらえ)などの祭祀に関わると考えられます。これらの遺物の時期は、8世紀でも古い段階に遡る可能性が指摘されていましたが、近年では8世紀中頃まで下る資料が含まれると考えられています。しかし、人面墨書土器の中では最古級の資料と考えられ、都城における人面墨書土器の出土遺構が井戸から溝・流路へ推移するという様相の中でも古い段階に位置付けられる点は重要です。

展示品紹介 No.26

土師の里遺跡 大刀形埴輪

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ほかの埴輪の陰に隠れがちですが、
見逃さないでください。
写真の下側には文様が描かれています。

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」には、これまでの展示品紹介で紹介した埴輪(No.1:蕃上山古墳「男子人物形埴輪」、No.4:萱振1号墳「靫形埴輪」、No.20:津堂城山古墳「翳形埴輪」)をはじめ、多くの形象埴輪が展示されています。今回紹介する、土師の里遺跡出土の大刀形埴輪もこのコーナーで展示している埴輪ですが、多くの埴輪の中にあるので、目にとまりにくいかもしれません。

 この大刀形埴輪は、1979(昭和54)年度の発掘調査でみつかったもので、同じ調査区でみつかった出土品が、展示品紹介No.22で紹介した「紡錘車形石製品」や、No.18で紹介した「子持勾玉」の一部、古墳造営キャンプのコーナーで展示している土器類の多くです。

 この大刀形埴輪は、上部の主に柄部分が残る程度のため、全体の形状は不明で、残っている高さは約35㎝です。柄の下側、鞘部との境界付近には2段の突起があり、この突起から完存しない柄頭までの柄間に渡すように護拳用の帯が表現されています。その表面には、半球状の飾りが2個一対で沈線に区画された内側に付され、一部剥離しているものの8列分が残ります。上端部が欠けているため、もう少し上側まで伸びていたようです。この部分には三輪玉を表現する例があり、本例は帯に付された玉を表現したものと考えられます。残存する上端は、柄頭の一部と考えられ、護拳用の帯の表現を正面とし、向かって約90度左側に外側への突出が表現されて、楔形柄頭を表現した一部と推定できます。一方、突起より下側の鞘部は、一部が残るのみですが、その護拳用の帯側には線刻が施されています。残存部分が少ないため、線刻による文様の詳細は不明です。

 大刀形埴輪は、倭風の飾り大刀がモデルになっていると考えられています。古市古墳群内では、土師の里遺跡やその南側にある茶山遺跡などで、直弧文が施された柄頭部などの出土が確認されています。ただし、その出土数はあまり多くないと思われ、貴重な例といえます。

展示品紹介 No.25

蕃上山(ばんじょうやま)古墳 巫女形埴輪

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凛と佇む。 帯の表現。
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襷がけをしています。

 当館、中地階を降りて左手、たくさんの埴輪が並んでいますが、今回は、その中から、巫女形埴輪を紹介したいと思います。展示品紹介の記念すべき第1号は蕃上山古墳から出土した男子人物埴輪でしたが、その隣で凛とした佇まいをみせてくれます。同じく蕃上山古墳から出土しました。

 頭部が残存するのは手前の1体だけですが、後ろ2体も同じ衣服の表現がなされているのが分かります。いずれも、袈裟状の衣を右肩から左脇にかけて纏っています。その上から、ゆるく帯を巻いて前で結んでいるため、左脇の下部、輪になった衣が袋状にたるんでいます。また、襷がけの表現もみられます。後ろ側、襷が背中で×になっているのがわかります。

 蕃上山古墳の人物埴輪は近畿地方でも初期のものとして知られますが、こうした衣服の表現は、近畿地方の女子の埴輪に典型的にみられるものです。袈裟状の衣は、巫女の祭服である意須衣(おすい)を表現したものと考えられ、「巫女形埴輪」と呼ばれています。また、この袈裟状の衣は、食膳奉仕にあたった女官、采女(うねめ)の衣服(肩巾(ひれ))を表現したものとの見方もあります。また、蕃上山古墳の「巫女形埴輪」は腕が欠損していますが、両手を前につき出して容器をもった女子の埴輪が多くみられます。彼女たちも腕を前に出しているようにもみえますね。何かを捧げていたのでしょうか。

展示品紹介 No.24

青山5号墳 埴輪円筒棺

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埴輪円筒棺の上には、青山古墳群のパネルと
出土した須恵器も展示しています。
須恵器の陰に隠れかけていますが、
みつかったようすの写真もご覧ください。

 常設展示室、第二ゾーン内「横穴式石室の世界」の「古墳群と群集墳(古墳群)」コーナーで大ぶりな展示品が、今回紹介する青山5号墳の埴輪円筒棺です。

 青山古墳群は、墓山古墳やその陪冢とされる浄元寺山古墳、西墓山古墳の南西に位置し、南側の羽曳野市域にみられる軽里古墳群と一連の古墳群と考えられています。青山・軽里古墳群は、墳丘長72mの造り出し付円墳(もしくは帆立貝形墳)である青山古墳(青山1号墳)を中心に十数基からなります。青山古墳群では、1977・78(昭和52・53)年度の発掘調査で2~6号墳、1989・99(平成元・11)年度の発掘調査で7号墳が、明らかになっています。これらは、1号墳、4号墳、2号墳の順に形成された比較的大型の墳丘で構成されるグループと、6号墳、5号墳、3号墳の順に形成された小規模な墳丘で構成されるグループの、2つのグループが少なくともあり、それぞれ5世紀前半から末頃にかけて順次築造されました。各古墳の周溝から埴輪や須恵器が出土しています。

 青山5号墳は一辺7mの小規模な方墳で、主な埋葬施設は削平を受け不明ですが、周溝から人物埴輪や馬形埴輪の破片が出土しています。そして、周溝南東隅でみつかった埴輪円筒棺1基が今回紹介のものです。この埴輪円筒棺は、展示している2つの円筒埴輪を重ねて棺身とし、これら以外に小口側や継ぎ目を別の埴輪で閉じており、合計5個体の埴輪が使用されていたようです。これらの埴輪は、5世紀後半頃のものと考えられています。埴輪は、向かって左側が長さ約120㎝、直径60~70㎝で突帯が10条残り、右側が長さ90㎝、直径約55㎝で突帯が6条残りますが、いずれも底部は残っていません。埴輪棺の中からみつかったものはなく、棺として使用された時期はわかっていません。

 青山古墳群は古市古墳群を構成する古墳群ではあるものの、同時期の大型古墳に比べると明らかに小規模で、埴輪円筒棺はさらにその周辺に埋葬されており、被葬者たちの中に格差が認められます。古市古墳群の中における複雑な階層構造をうかがう上でも重要といえます。

展示品紹介 No.23

金山古墳 家形石棺復原模型

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家形石棺の模型だけではなく、背面のワイヤーにも注目してください。

 当館の常設展示室に入って、最初に目に入るのは2つの大きな家形石棺の模型ではないでしょうか。これが今回紹介する、河南町芹生谷に所在する金山古墳の、横穴式石室内部の家形石棺の実物大模型です。その背面に、黒いワイヤーで表現しているのが、石室壁面の石積みで、左側の低い方が羨道、右側の高い方が玄室です。

 右側の家形石棺に開いた穴は、実際に開いていたわけではなく、石棺の中を覗けるように開けられています。この穴の前に立つと音声解説が始まり、金山古墳の被葬者が埋葬された時の様子を語ります。金山古墳は大小2つの円球を連結した双円墳という全国的にも珍しい墳形で、墳丘の長さは85.8m、周濠を含めると104mにもなる古墳です。小さいほうの円丘(北丘)は直径38.6m、高さ6.8mで2段に築かれ、大きい方の円丘(南丘)は直径55.4m、高さ9.4mで3段に築かれています。なお、葺石はくびれ部西側のみに存在しています。1991(平成3)年には国の史跡に指定されました。

 1946(昭和21)年に調査が行われ、北丘に長さ約10mの横穴式石室が存在し、内部には二上山産の凝灰岩を刳り抜いた家形石棺が2基並んでいることがわかりました。家形石棺内には朱が塗られていましたが、中身は既に盗掘されており、遺物はガラス玉や馬具、土器の破片などがわずかに出土したのみです。

 一方の南丘は発掘調査されておらず、詳細が不明でしたが、1993(平成5)年に実施された地中レーダー探査により、南丘にも横穴式石室が存在することが確認されました。

 当館の金山古墳の家形石棺復原模型をみると、向かって右側と左側の家形石棺では、蓋の形(天井の平坦面の幅、四角く出っ張っている「縄掛突起」の取り付き位置や角度など)が違うことがわかります。この家形石棺の特徴から、左側の家形石棺は右側の家形石棺より後につくられ、羨道に追葬されたと考えられます。金山古墳の築造年代は、石棺や石室の型式、出土した須恵器から7世紀初頭頃と考えられます。この時期はちょうど前方後円墳が造られなくなる時期にあたります。前方後円墳の築造が停止した後にもかかわらず、大規模な墳丘をもつことから、相当有力な勢力が造営した古墳であると考えられます。

 金山古墳は現在「史跡金山古墳公園」として復元整備されており、北丘の横穴式石室を覗くことができます。なお、この模型左側には整備前の写真があります。古墳は、当館から車で20分ほど行ったところにありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。

展示品紹介 No.22

土師の里遺跡 紡錘車形石製品

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じっくりご覧ください。

 今回は、中地階、古墳造営キャンプのコーナーにある小さい出土品の紹介です。上から見ると直径4~4.5㎝程度の円形、横から見ると台形の形をした石製品で、中心には0.5㎝くらいの孔があいています。一体何に使った道具でしょうか?これは、糸を紡(つむ)ぐ時に使用する錘(おもり)で、紡錘車(ぼうすいしゃ)、紡輪(ぼうりん)とも呼ばれます。展示品には石製のものと土製のものがありますが、木製のものや、6世紀には鉄製のものも出現します。真ん中の孔には糸巻棒(紡茎)を通して使用します。糸を強くするためには、撚りをかける必要があります。細かく裂いてつないだ繊維の先端を糸巻棒に引っ掛けて垂らし、紡錘車の回転を利用して糸に撚りをかけます。撚りがかかった糸は糸巻棒に巻き付けていきます。これを繰り返して糸巻棒にどんどん糸を巻き付けていきます。

 古墳時代の糸や布といった繊維製品は日本の土壌では残りにくく、ほとんどその現物は遺存しません。また、紡織の道具の多くは、木製品でありやはり遺存状況はよくありません。こうした中で、紡錘車は残りやすい道具ということができ、その出土は、糸を紡ぐ作業をしていたことを示すものです。当時の紡織を考える上でも重要な資料といえます。

 展示している紡錘形石製品のうち、右側2つは滑石製で文様が施されています。右(写真上)は上面に放射状の細い線を刻み、中央(写真左下)は側面に綾杉状の線刻が施されています。左(写真右下)は片岩製です。なお、石製の紡錘車は、古墳の副葬品にもみられること、鋸歯文などの文様を施す滑石製品があり、祭祀遺構からの出土もみられることから祭祀具としての評価もあります。

展示品紹介 No.21

土師の里遺跡 盾形埴輪

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最初の方の盾形埴輪です。 「✕」上の線刻が施されています。
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最後の方の盾形埴輪です。 右側面に線刻が施されています。

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」、中地階奥の半円形にずらりと円筒埴輪などが並んでいる最初と最後にある埴輪が、今回紹介する藤井寺市土師の里遺跡における1988(昭和63)年度の発掘調査でみつかった盾形埴輪です。盾形埴輪は、その形や文様から他の埴輪と区別がつきやすく、器財埴輪では広くみられる種類です。

 両者ともよく似た形態で、円筒埴輪の前面に盾を貼り付けたものです。底部は残存しませんが、高さは90㎝程度で、突帯が現状で5条残りますが、6条であった可能性が考えられています。盾部は、上縁が緩やかな山形を呈しており、盾面は外側に主にギザギザ状の鋸歯文、内側に菱形の文様が描かれていますが、最初の方に展示している盾形埴輪の方が、それらの文様がやや密に施されます。なお、菱形の文様を描く際の割り付け線も残ります。この盾面の文様の特徴から、革製の盾をかたどったものと考えられます。また、両方の盾形埴輪とも、円筒部の一番上の段に線刻がみられます。最初の方が正面に近い位置に「×」状、最後の方が正面から約90度、向かって右側に、逆「凸」状で、その上部内側に逆「凹」状の線刻です。なお、この線刻が施されている一番上の段の外面は、最初の方にヨコハケが施される一方、最後の方にはヨコハケが施されていません。

 これらの盾形埴輪は、鞍塚古墳の北約40mで確認された埴輪棺に使用されていたものです。墓壙は長さ2.3~2.4m、幅0.8m、残っていた深さは0.3mで、いずれも盾面を下にして棺身とし、これら2点の盾形埴輪以外に、小口やスカシ穴の閉塞に朝顔形埴輪の口縁部や円筒埴輪なども使用されていました。内部から、人骨や副葬品は出土しませんでした。この埴輪棺がみつかった地点の周辺でも、複数の埴輪棺が確認されています。土師の里遺跡では多くの埴輪棺が確認されていますが、その中でも、この周辺は多くの埴輪棺が集中する地点です。

展示品紹介 No.20

津堂城山古墳 翳(さしば)形埴輪

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正面からみた翳形埴輪

 常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」に並ぶ形象埴輪の中で、ひときわ大きな埴輪がこれで、古市古墳群最古の大型前方後円墳と考えられている津堂城山古墳からみつかった翳(さしば)形埴輪です。

 この古墳からは、展示品紹介No.15で紹介した水鳥形埴輪をはじめ多くの埴輪がみつかっていますが、この翳形埴輪は、1980(昭和55)年の後円部西側の外堤の調査で出土しました。翳とは、団扇に長柄を付けたもので、宮中の儀式で天皇などの貴人の顔を隠すためにさしかけて用いられたもののことをいい、それとの類似から、翳形埴輪と呼ばれています。しかし、この埴輪の上側の、横に広がる板状部分の形状を衝立と考え、衝立形埴輪と呼ぶ意見もあります。なお、この横に広がる板状部分の表現は、船形埴輪の内側を仕切る壁や、椅子形埴輪の背もたれにも、似た表現がみられます。

 上部の横に広がる板状部分と、下側の円筒埴輪部分とは別作りです。板状部分は、復元径60~65㎝のドーム状の台の上にあり、幅131㎝、高さ76㎝で、裏表二対の支柱状のもので支えています。両面とも同様なハケ調整で仕上げられており、いずれかの面が正面(おもて面)として意図されたのではないようです。また、線刻などはみられません。ドーム状の台の下の基部は、円筒埴輪の中に入れられているためみえにくいですが、直径52~56㎝に復元されています。下部の円筒埴輪は、口縁部径77.8㎝、復原高133.8㎝、底部径60㎝の大型円筒埴輪で、上部をあわせた全体の高さは、2mにおよびます。なお、上部の横に広がる板状部分に線刻が施され、下側の円筒埴輪部分と一体成形したと考えられる翳形(衝立形)埴輪が、高石市大園遺跡でみつかっています。

 この埴輪は、類例の時期から、4世紀後葉から5世紀前葉の限られた時期にのみ見られる埴輪と考えられています。

展示品紹介 No.19

讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡 扉材

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壁に展示された2枚の扉 使用の痕跡
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加工の痕跡

 B2クラのコーナーの展示ケースに2枚の大きな板材がたてかけられています。これは、寝屋川市讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡から出土した建物の扉板です。発掘調査では地中に掘りこまれた建物の柱の穴が見つかることはありますが、地上に本来あった建物自体が見つかることはほとんどありません。実際にどんな建物があったのか、その手掛かりのひとつになるのが建築部材です。しかし、建築部材の多くは木製品であるため、腐ってしまって残らないことがほとんどです。展示している資料は、井戸枠に転用されており、水漬けの状態であったため、良好な状態を保っていました。

 向かって左の扉板は長さが1.3m、幅0.41m、厚さは0.14m、右の扉材は長さが1.35m、幅0.47m、厚さは0.14mを測ります。どちらも、中央に把手状の突起(閂(かんぬき)受け)が削り出されています。真ん中に穴が開いていますが、これは閂を通すための穴です。観音開きの扉で、2枚一組で使います。中央の穴に横木、つまり閂を通すことによって、扉が閉められます。よく見ると、この穴のある部分が横方向に溝状にへこんでいます。これは、閂を引き抜く際の摩滅や、閂をかけている際の扉のがたつきなどによって表面がこすれて傷んでしまった痕跡、つまり当時の人々が使用した痕跡です。また、板の表面には加工の際の工具の痕跡も残っています。観察してみてくださいね。

 井戸枠には板材に混じって他に3枚の扉板が再利用されていました。本来2枚で1セットの扉となりますが、展示されている2点は閂受けの形状が異なっていること、孔の大きさが異なっていることから、組み合うものではないと考えられます。5枚の内、セット関係と考えられるのは1組だけで、4セットの扉が1基の井戸に再利用されていたことになります。こうした扉は倉庫に使用されたものと考えられますが、複数の立派な倉庫の存在は讃良郡条里遺跡の性格を考える上でも重要であるといえます。

展示品紹介 No.18

近つ飛鳥博物館常設展示室の子持勾玉

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土師の里遺跡の子持勾玉 池島・福万寺遺跡の子持勾玉

 「子持勾玉」は、古墳時代の文物のなかでもっとも特殊な遺物のひとつです。子持勾玉は、古墳時代中期後半から後期にかけて広く用いられ、全国で450例を超える出土が知られています。しかし、その形態的意味、使用法などの定見は、資料は蓄積されてきたにもかかわらず明らかにできていないもののひとつです。

 大阪府立近つ飛鳥博物館には、常設展示室に府内の5点の子持勾玉が展示されています。「古墳造営のムラ」の土師の里遺跡3点、「開発と技術」の池島・福万寺遺跡の2点の5点の子持勾玉が展示されています。いずれの資料も集落遺跡の包含層からの出土で詳細な時期については明らかではありません。また、表現や形態もそれぞれ異なっています。

 子持勾玉は、時期の明らかな資料の検討から、当初から通常の勾玉とはやや容姿を異にした形状にはじまったと考えられます。基本的には、時期を追って粗雑化していくようです。子持勾玉の特徴は、取り付けられた「子」勾玉にあります。「勾玉」というモチーフの使用については、玉杖柄頭飾、刳抜式石棺の枕や石枕の立花などへの装飾的配置や大阪府紫金山古墳の勾玉文鏡など興味深い事例が存在します。もしかすると、勾玉の持つ「呪力」を数量的に増幅するなどの意図を持っていたのではという意見もあります。みなさんも常設展示室でじっくりと見ていただいて、ぜひ考えてみてください。

展示品紹介 No.17

馬の復元模型と古代の馬

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左から、出土資料(ケース内)・復元模型・骨格模型です。

 常設展示室の地階、黄泉の塔の真下にあたる場所に、今回紹介する古代の馬の展示があります。展示では、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡から出土した馬の骨格と、その骨格をもとに復元した骨格模型、骨格模型に肉付けした馬の復元模型が並んでいます。

 考古学的には、日本列島で馬が本格的に飼育され、普及するのは古墳時代中期以降と考えられます。古墳時代「河内湖」の縁辺に位置する遺跡からは、5世紀頃の馬の骨や歯、飼育に必要な塩をつくる製塩土器、鞭(むち)やブラシの柄、鞍(くら)、鐙(あぶみ)が出土しています。これらのことから、馬の飼育・調教をおこなう「牧」があったと考えられています。日本書紀にも、河内馬飼部(かわちのうまかいべ)の記述がみられます。これらの遺跡からは、朝鮮半島に由来する土器などが多く出土していることから馬の飼育など新たな技術には渡来人が深く関与していたと考えられてます。

 展示されている骨格は、上顎から上部を欠いていますが、古墳時代の馬の姿が分かる貴重なものです。年齢は5~6歳、体高(肩の上からつま先までの長さ)127cm程度と推定されていますが、性別は分かりません。現在のサラブレットでは体高が150cm程度であることを考えると非常に小柄な馬でであったようです。長辺約200cm、短辺約150cm、深さ約30cmの土坑に横たわるようにして埋葬されており、死後に丁寧に扱われたことが分かります。

 発掘された骨格は、宮崎県に現存する御崎馬(みさきうま)に最も近いため、御崎馬を参考に全体像の復元がなされました。展示されている馬の場合、顎から推定できる頭部の大きさは、現存する馬よりも大きく、体の割に大きな頭をしていたようです。この頭部の大きさが、個体差か当時の品種による違いかは分かりませんが、本資料が古墳時代の馬の姿を知るうえで貴重なものであることには違いありません。

 なお、復元模型には「遥馬(はるま)」という愛称がつけられています。ご来館の際には、是非「遥馬」と背比べをして、古墳時代の馬の大きさを実感してみてください。

展示品紹介 No.16

アリ山古墳 副葬庫埋納時再現模型

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写真手前側は、下層までみえるようになっています。 三角形状の鉄鏃には、3か所に孔が開いています。

 今回紹介する展示物は、中地階正面、常設展示第2ゾーンの「王と民衆」コーナーにある模型です。アリ山古墳は、古市古墳群最大規模の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の陪冢(ばいちょう)とされる5世紀前半の古墳です。一辺45m、高さ4.5mの方墳で、墳頂部で中央・南・北の3つの施設がみつかっています。今回紹介する模型は、これらの施設のうち、最も残りがよく、大量の鉄製品が出土した北施設を復元したものです。

 この施設には、多数の鉄製品が納められていました。東西3.02m、南北1.38mの長方形の土壙に木製の容器が設置され、その中に武器・農工具が上・中・下の3つの層に分かれて置かれていました。人の遺体が埋葬された痕跡はうかがえなかったことから、副葬品埋納用の施設と考えられています。

 上層は、鉄鏃1542本からなります。32の群に分かれてみつかっていることから、約50本の矢を一束にしておかれていたようです。鏃の形は、細長いものと三角形状のものの2種類に分けられます。このうち三角形状のものには、先端側と下方両側の計3箇所に孔がみられます。その目的はよくわかりませんが、矢が飛ぶときに音を発するようにするためという考えがあります。中層では、槍8本、矛1本、刀77本、剣8本からなる武器が置かれていました。なお、刀と剣は特に区別されずに置かれていました。下層では、斧、蕨手刀子、鑿、錐、ヤリガンナ、鋸、鎌、鍬など929点の鉄製農工具が、10群に分けておかれていました。

 模型は、向かって左側は矢の一部の部分的な復元に留めて、下の農工具まで観察できるように工夫されています。これら多量の鉄製品は、発見時には木製の柄の部分などはほとんど朽ち果てて残っていませんでした。こうした朽ち果てた細部までリアルに復元した模型は迫力があります。

展示品紹介 No.15

津堂城山古墳 水鳥形埴輪【複製品】

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島状施設や濠を復元した3体の展示状況

当館で1階から中地階へ降りたすぐのところに展示しているのが津堂城山古墳出土水鳥形埴輪(複製品)です。津堂城山古墳は、古市古墳群で最初に築かれた大型前方後円墳で、墳丘長は210mを測ります。水鳥形埴輪は、墳丘東側の古墳周濠に築かれた、一辺17mの島状遺構南側傾斜面からみつかりました。2体は1mを越える大きなもので、残る1体は一回り小さいものです。大形の2体はほぼ同形同大で、いずれも基部となる円筒に鰐がめぐり、その上に踏ん張るように立っています。ちょうど脚がのる部分の鰐は、水かきを意識した形状で、非常に写実的です。また、立体的な翼や嘴の鼻孔などにも注目できます。

 これらの水鳥形埴輪は、全国の出土例の中でも最古かつ最大のもので、2006年6月には国の重要文化財へ指定されました。ちなみに、その実物は藤井寺市の「アイセルシュラホール」で展示されています。

展示品紹介 No.14

一須賀O-5号墳出土状態再現

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ガラスにのって直接真上から見学できます。 手前側。石室の袖部分も表現されています。
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石棺の奥の土器。展示品No.12で紹介した
ミニチュア炊飯具形土器の甑があります。
木棺の奥にも土器がまとまっています。
こちらにはミニチュア炊飯具の竈があります。

 当館の中地階「黄泉の国」のコーナーにあるのが、一須賀O-5号墳出土状態再現です。横穴式石室は、遺体を安置する空間である「玄室」と、そこに至る通路の「羨道」からなり、この再現展示は、玄室部分の床面付近を中心としています。なお、この石室は、玄室長3.45m、幅2.0m、羨道長3.0m、幅1.15mの大きさで、この古墳の築造時期は、6世紀後半と考えられています。

 この古墳には、少なくとも2人が葬られていました。そのうち1人は、板状の石材がまとまる部分に葬られていました。これらの石材は、組合せ式の家形石棺を構成しています。もう1人は石棺の横に置かれた木の棺に葬られていました。木の棺そのものは残っていませんでしたが、板材をつなぎ合わせていた釘などの位置から安置されていた場所が推定できます。さらに石棺の手前(羨道側)にみられる釘から、ここにも木の棺が安置されていた可能性が考えられます。

 O-5号墳からは、須恵器や耳飾り、鉄の刀などがみつかりました。このほかに、展示品紹介No.12で紹介した竈などの炊飯具のミニチュアが出土しています。このミニチュア炊飯具の出土によって、渡来人やその子孫がO-5号墳に葬られていたと想定することもできます。

展示品紹介 No.13

役人たちの墓誌3点【複製品】

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こちらの展示です。 ① 威奈大村の金銅製球形の骨蔵器(国宝)
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② 高屋枚人の石製墓誌(重要文化財) ③ 船王後の銅製墓誌(国宝)

 展示室1階奥のF「古墳の終りと墓」というコーナーのうち、F1「文字と品物」には3点の墓誌(複製品)が展示されています。墓誌とは被葬者の名前や出自、経歴、没年、埋葬年などを銅板や石板などに刻み、墓に納めたものです。官人を中心に、7世紀後半から8世紀までの16例が現存しています。中には火葬骨を入れる骨蔵器に記したものもあり、墓誌を納める風習が火葬の普及と連動することがわかります。

 展示されている3点は、①威奈大村(いなのおおむら)の金銅製球形の骨蔵器(国宝)、②高屋枚人(たかやのひらひと)の石製墓誌(重要文化財)、そして③船王後(ふねのおうご)の銅製墓誌(国宝)です。

 このうち①は、江戸時代に香芝市穴虫から出土したものです。威奈大村は持統朝から朝廷に仕え、小納言・侍従・左少弁・越後城司(越後守のこと)などを歴任して、慶雲4年(707)4月24日に46歳で越後で病死した後、同年11月21日に大倭(やまと)国葛木下(かずらきのしも)郡山君(やまきみ)里の狛井山崗(こまいやまのおか)に葬られました。

 ②は、江戸時代に太子町太子で見つかりました。高屋枚人は正六位上という位階を持つ常陸(ひたち)国の大目(だいさかん)(国司の第4等官)で、宝亀7年(776)11月28日に埋葬されました。書かれた内容はこれだけです。なおこれには蓋(ふた)石も付いています。

 ③はやはり江戸時代に、柏原市国分市場の松岳(まつおか)山から出土したと伝えられます。船王後は船氏の中祖の王智仁の子の那沛故の子として敏達天皇の時に生まれ、推古・舒明朝に朝廷に仕え大仁の位を賜った後、辛丑年(=舒明13年)(641)12月3日に亡くなり、戊辰年(=天智8年)(668)12月に松岳山の上に葬られました。埋葬時期が遅いのは、妻の安理故能刀自(ありこのとじ)の死後に改葬・合葬されたためです。祖父の王智仁は『日本書紀』の欽明・敏達紀に見える、船氏の祖の王辰爾(おうしんに)のことで、船氏は河内にいた百済系の渡来氏族です。

 3点はいずれもここからそれ程遠くない所で見つかったものですが、その他にも太子町春日からは紀𠮷継(きのよしつぐ)の墓誌(塼製)が出土しています。また奈良県五條市東阿田町で見つかった山代真作(やましろのまさか)の金銅製墓誌によると、彼が住んでいたのは河内国石川郡山代郷でしたが、それは河南町山城にあたるとみられます。

展示品紹介 No.12

一須賀古墳群出土 ミニチュア炊飯具形土器

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展示では様々な形のものが並んでいます。 分解する左から
「竈(かまど)・甕(かめ)・甑(こしき)」。
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甑の底もちゃんと作ってます!

 今回は一須賀古墳群出土のミニチュア炊飯具形土器を紹介します。展示室に入ってすぐ左手のケースには一須賀古墳群の資料が展示してあります。その中で、なんともかわいらしい土器がありますが、これは、竈(かまど)・鍋(なべ)・甑(こしき)といった炊飯(すいはん)具(ぐ)のミニチュアです。それぞれ、別々に作られていて、一番下にあるのがカマドです。竈には庇(ひさし)が表現されているものもあります。真ん中は鍋、そして一番上にあるのが甑です。甑の底部には孔があいて、鍋の上に据えて使う、いわゆる蒸し器です。

 6世紀を中心に古墳に副葬品されたミニチュア炊飯具形土器ですが、そのもととなる実用品は、これより古く、5世紀に渡来人によって日本列島にもたらされたと考えられます。もともと、日本にはなかった土器で、須恵器生産や馬匹(ばひつ)生産など、様々な新しい技術とともにやってきた渡来人たちの道具であったと考えられます。

 しかし、ミニチュアの炊飯具形土器は、朝鮮半島と日本列島を比較すると、日本での出土例の方が圧倒的に多く、特に河内や、大和、琵琶湖南西部の群集墳(ぐんしゅうふん)に特徴的に認められる副葬品です。一須賀古墳群でも20基ほどの古墳からみつかっています。その故地については、中国では、同じ形のものではありませんが、小型の炊飯具を副葬する風習があることから、中国系渡来人とする意見もあります。いずれにしても、こうしたミニチュアを古墳に副葬する風習はこれまでの日本にはなく、渡来人との関わりが考えられるものであり、一須賀古墳群の被葬者に渡来系の人々が含まれていたことを示すものといえます。

 実は展示室には、もう一か所、ミニチュア炊飯具形土器が展示されているのですが、どこでしょうか?

展示品紹介 No.11

安福寺石棺【複製品】

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縄掛け突起も推定復原しています。 文様にはスポットライトを当てています。

 展示品紹介No.2では前塚古墳出土長持形石棺を紹介しましたが、その手前側に展示しているのが、柏原市玉手町にある安福寺の境内に安置されている刳り抜き式割竹形(わりたけがた)石棺の複製品です。実物は1990(平成2)年には国の重要文化財に指定され、今でも安福寺境内で見ることができます。

 この石棺は、蓋と考えられていますが、当館の展示では身の方も推定復原しています。長さ256㎝、幅90㎝、高さ47㎝で、使われている石材は香川県鷲の山(わしのやま)産と推定されています。石棺の小口には縄掛け突起があったようですが、欠損しており痕跡だけ見ることができます。石棺の合せ口に近い外面には「直弧文(ちょっこもん)」という特殊な文様が線刻されています。近年、事例の増加や研究の進展により、この文様を直弧文とは別の文様とする意見が出されており、文様研究の上でも非常に重要な資料といえます。

 この石棺がそもそもどの古墳に埋め置かれていたのか、という点については、古くから近在する玉手山古墳群の3号墳とする伝承があります。3号墳は、墳丘長100mの前方後円墳で、2004(平成16)年には埋葬施設の発掘調査が行われました。残念ながら、埋葬施設は大規模な盗掘を受けており、蓋と考えられる安福寺境内の石棺と組み合わさる石棺の身は発見できませんでした。しかし、木棺を安置した際にみられる粘土棺床が認められなかったことなどからは、石棺を納めた竪穴式石槨であったと推定でき、安福寺境内の石棺が納められていた可能性も考えられます。

展示品紹介 No.10

下級役人の勤務評定木簡【複製品】

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正面の展示ケースです。 「去上従八位下村・・・」木簡です。
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手前の役人の机の展示です。 「去上位子従八・・・・」木簡です。

 展示室1階奥の「E文字の時代」に展示している木簡の中には、平城宮で働く下級役人の勤務評定に関わるものが2点あります。

 その1つ「去上従八位下村合氷守公麻呂〈年五十四/河内国志紀郡〉上日二百十船稲」と書かれた木簡は、長さが292㍉、厚みが30㍉もある大きなものです。上端の右半分が欠けていますが、そこに孔が横方向にあいているのがわかります。頭に書かれた「去上」は、去年の勤務評定の結果(考第)が上であったことを示します。当時の役人には、常勤の人(長上官)と非常勤の人(分番官)がおり、分番官は年に140日以上勤務すると、勤務態度が評価され(考課という)、上・中・下の考第がつけられました。そして数年間(8年以上から後に2年短縮)の成績を元に、位階が上がります。

 この木簡の主人公は、従八位下という位の村合氷守公麻呂(むらあいのひもりのきみまろ)です。彼は54歳で、河内国志紀郡に本籍を持っています。志紀郡は石川と大和川が合流する辺りの石川西部で、今の八尾市南部・柏原市西部から藤井寺市・羽曳野市にかけて広がっていました。最後の「上日二百十船稲」は、今年の上日(勤務日数)が210日であると、船稲(ふねのいね)という人が後から書き込んだ部分です。考課を受けるに十分な日数です。このデータを元に、今年度の成績がつけられたはずです。上端の孔は事務処理のために、紐を通して同種の木簡を綴じるのに使われました。

 もう1つ、「去上位子従八位上伯祢広地〈年卅二/河内国安宿郡〉」という木簡も同種のもので、長さが39.4㌢、厚みが31㍉とさらに大きいものです。やはり上の方に、孔が横方向に貫通しています。伯祢広地(はくねのひろち)の本籍の地は河内国安宿(あすかべ)郡です。安宿郡は大和川以南で石川以東、今の柏原市南部から羽曳野市にかけての辺りです。位階の上に書かれた位子は、彼が出仕するようになった理由にあたります。すなわち六位以下、八位以上の人の嫡子で、21歳以上になっても官途についていない者を試験して、大舎人(おおとねり)や兵衛、使部(しぶ)(諸官司の雑用をこなす下級役人)などに採用する規定に従って、役人になったのです。しかし先の木簡と違って、この年の勤務日数が書かれていません。何らかの事情で、彼は働けなくなったのでしょうか。

 これらの木簡は文官の人事を掌る式部省という役所跡の近くから出土しました。二人とも本籍は河内国に置いたまま平城宮で勤務していました。恐らく家族を故郷に残しての単身赴任だったのでしょう。家族と離れて都で成績を気にしながら勤務に追われても、なかなか出世できない下級役人たちの悲哀が感じられるようです。

 なお考課に関わる木簡は用が済むと、刀子(とうす)で表面を削って文字を消して再利用されます。そのため形のある木簡よりも削屑(けずりくず)の方が大量に出土しています。

展示品紹介 No.9

堂山1号墳 三角板革綴衝角付冑・錣三角板革綴短甲【大阪府指定文化財】

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とがった右側の衝角部分が前です。 冑の下について頸を保護します。
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後ろからみると大きさを実感できます。 特別展示室にじっくり見てみよう!

 今日は、堂山1号墳から出土した甲冑を紹介します。堂山1号墳は大東市に所在する円墳です。直径25mと小規模ながら、甲冑や多くの鉄製品が副葬されており、地域の首長墓との評価がなされています。三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)、三角板革綴短甲(さんかくいたかわとじたんこう)、なんだか、長々と漢字がつづいて難しい名前ですね。でも、分解してみると、意外とわかりやすかったりします。

 まず、三角形に注目です。かぶとにもよろいにも三角形の鉄の板が組み合わさっています。そして小さい孔が並んでいますが、この孔に革紐を通して板をとめています。よく見ると、革紐が残っている部分もあります。基本的な枠組みを作って、その中に方形や三角形の地板をはめ込んで固定するもので、堂山1号墳の資料は三角形の地板を革紐で綴じている、というわけです。規格的なフレーム構造によって製作されており、「定型化した甲冑」と言われます。当時、鉄素材は国産ではなく、海外から持ち込んで製品が作られていました。甲冑は鉄製品のなかでも最高水準のものであり、規格性の高さからも、ヤマト王権のもとで一元的に生産、管理されていたと考えられます。

 いつもは中地階、ゾーン2に展示していますが、現在、特別展示室に出張中です。夏季企画展『堂山1号墳ーその被葬者像をさぐるー』では、ぐるり、360度から見ることができます。よろいの後ろ姿にも注目してみてください。また、かぶとの天頂部にも注目です。前面のとんがっている部分を衝角といいますが、天頂部にも注目してみてください。小さな孔が開いています。実は2か所あるのですが、1つは良く分かります。この孔は、三尾鉄(さんびてつ(みおがね))を紐づけた孔だと考えられます。三尾鉄は残っていませんが、三又になった鉄製品で、鳥の羽などを括り付けていたと考えられます。U字状になった板が錣(しころ)で、冑にとりついて頸部を保護するものです。周囲には小さな孔があいていていますが、革紐を孔にとおして縁取りしています。じっくり観察してみてください。

展示品紹介 No.8

美園古墳 家形埴輪1【重要文化財】

美園家形1
優雅な姿の高床式の建物
盾表現 ベット状遺構
盾の表現 内部のベット状施設

 当館の展示品の中に、ひときわ秀麗なたたずまいの埴輪があります。「埴輪の世界」の独立ケースに納められた、大阪府八尾市美園古墳出土の家形埴輪です。美園古墳はいわゆる「埋没古墳」であり、1981年の発掘調査で確認された一辺約7mの小規模な方墳で、古墳時代前期の4世紀の古墳です。周溝から多数の壺形埴輪とともに、精巧な家形埴輪が2点出土しています。

 常設展示室に展示されている家形埴輪は入母屋造の屋根形式で高さ70㎝を測る大型品です。高床式と考えられる2段の構造で、屋根には鰭飾りがつけられている格式の高い建物を模したものです。四方の壁にはそれぞれ窓を設け、柱に線刻で盾を描いていることから、祭祀・儀礼の行われた建物を表現したという意見もあります。内部には、網代編みのベット状施設が表現されています。

 建物外壁をはじめ内部の細部まで丁寧に表現されていることから、古墳時代における建物の建築様式や内部構造を知る上で貴重な資料として知られています。美園古墳からは、このほかに切妻屋造の家形埴輪、壺形埴輪などが出土しています。1995年(平成7年)に家形埴輪2箇・壺形埴輪2箇が国指定重要文化財に指定されています。これらの埴輪についても、機会を見てご紹介したいと思います。近つ飛鳥博物館、そして大阪の秀逸な埴輪のひとつです。

展示品紹介 No.7

長屋王邸跡から出土した木簡【複製品】

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1階展示室の最奥部「文字の時代」。 展示されている木簡複製品。
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「住吉郡・・・」木簡。 「百済郡・・・」木簡(右:表、左:裏)

 展示室1階奥には「E 文字の時代」として、墨書土器や木簡、文房具などを展示したコーナーがあります。その中の木簡を取り上げます。

 木簡は木の札に文字を書いたものを言います。日本における木簡の出現は7世紀の前半のことですが、大量に使われるようになるのは7世紀後半以降で、飛鳥・藤原京・平城京などの都の跡で特に多く出土しています。律令制の成立に伴って、さまざまな行政処理が必要になったことによります。そして紙がなかったから木を用いたというのではなく、日常的なメモや付札には木簡を、正式な書類は紙にというように、木と紙の使い分けをしていたようです。

 「住吉郡交易進贄塩染阿遅二百廿口之中〈大阿遅廿口/小阿遅二百口〉」と書かれた長さ21.9㌢の木簡は、平城京左京三条二坊にあった長屋王の邸宅跡から出土したものです。長屋王は左大臣に昇りながら、天平元(729)年に謀反の疑いをかけられて自殺した悲劇の宰相です。王邸からは3万5千点余もの木簡がまとまって見つかりました。時期は平城京遷都直後の710年代です。摂津国住吉郡が交易(購入)して塩漬けの阿遅(アジ、鯵のこと)を220疋(内訳は大が20疋、小が200疋)を入手して、王邸に進上すると言っています。木簡の上下両端の左右にある切り込みは、そこに紐をかけて鯵を入れた荷物にくくりつけるためのものです。

 表に「百済郡南里車長百済部若末呂車三転米十二斛〈上二石/中十石〉」、裏に「元年十月十三日〈田辺広国/八木造意弥万呂〉」と書かれた木簡(長さ27.1㌢)も、長屋王邸跡から出土しました。摂津国百済郡南里の車長(くるまのおさ)である百済部若末呂(くだらべのわかまろ)が、車3両に米を12斛(こく)載せて王邸まで運ぶことを、元年10月13日に田辺広国と八木造意弥万呂(やぎのみやつこおみまろ)が報告している木簡です。米の単位の斛は、1斗の10倍、1升の100倍で、80㍑ほどにあたります。内訳では石という字で書いています。当時既に車を使ってモノを運んでいたこと、それを統括する車の長がいたことを示す興味深い木簡です。これには切り込みはありません。米俵は大量にあったので(当時の1俵は5斗入りなので、恐らく24俵)、それに結びつけたのではなく、若末呂が携えて行ったのでしょう。元年は霊亀元(715)年のこととみられます。

展示品紹介 No.6

一須賀古墳群WA1号墳 金銅製沓(くつ)【復原模造品】

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沓の表面には六角形の亀甲文が打ち出され、全体に歩揺が付けられています。

 常設展示室に入ってすぐ左手の展示ケースには、一須賀古墳群からみつかった資料を展示しています。その中でも金色に光り目を引くのが、金銅製沓復原模造品です。復原模造品のもとになった金銅製沓は、石棺内でばらばらになって発見されました。その表面には、幅2㎝前後の二重の六角形の亀甲文(きっこうもん)が多量に打ち出され、二重の枠内には20点以上の列点文がタガネなどで打ち出されています。さらに、銅線をねじった先に、径約9mmの円形の歩揺(ほよう)を綴じつけ、それを表面・底面にまで多量に飾っています。

 一須賀古墳群WA1号墳は、直径30mの円墳で、古墳群中最大規模の全長15mの両袖式の横穴式石室を埋葬施設とし、奥壁に接して組合式家形石棺がみつかりました。その立地が、やや独立した尾根の頂上部である点も、古墳群の中で特異な点です。出土遺物には、ここで紹介している金銅製沓以外に、金銅装単龍環頭大刀柄頭(こんどうそうたんりゅうかんとうたちつかがしら)片や金銅製冠(こんどうせいかんむり)片などがあり、盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が確認されています。これらから、この古墳の被葬者は有力首長と推定できます。

 当館の保管資料の中では、貸し出されることが多い資料ですので、しばしば片方になっていますが、じっくりとご覧いただければと思います。

展示品紹介 No.5

応神陵古墳外堤 笠形木製品

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笠の形のかなりの重量物です。 裏側は四角い柱に通した穴の形が見えます。

 当館の地階、「現代科学と考古学」のコーナーでは、科学的な手法による分析や遺跡の探査などを解説しています。今回取り上げる笠形木製品は、同コーナーの年輪年代測定を紹介する資料として展示されています。

 古墳の墳丘や段築の平坦面には、埴輪や埴輪を立てた痕跡とともに、これらとは違う形の柱穴が見つかることがあります。また、周濠など水が多く存在する場所では、有機物が残りやすく、木製の柱の上に乗っていたと考えられる笠形木製品や鳥形木製品などの出土が知られています。これらの木製品は、木製樹物(たてもの)や木製埴輪と呼ばれ、墳丘上の柱穴に立て並べられたと考えられています。当館の笠形木製品は全体の約半分が残っており、最大幅は74.0cm、高さは21.5cmを測るコウヤマキの巨木を用いたものです。コウヤマキは、耐久性が高い貴重な材であるとともに、長大な割竹形木棺に用いられるなど古墳造営とも密接にかかわる重要な材料です。この資料は、笠形木製品の中できわめて大きなもので、応神天皇陵古墳という巨大な大型前方後円墳に相応しい立派な製品です。

 日本のように、季節による寒暖や降水量などの変化が大きい地域では、1年の内で樹木の生長度合いに差ができるため、毎年年輪が形成されます。年輪はもっとも樹皮に近い部分が新しく、樹木の中心になるほど古くなります。この年輪間の幅を測定してその変化のパターンを記録します。これを伐採年が確実に分かっている樹木の年輪と、過去の木材の年輪間の測定値の組合せが重なる部分をつないでいき、年代の基準となるパターンを作成して樹木の伐採年を調べるのが「年輪年代測定法」です。年輪年代法では、ずばり伐採の実年代が1年単位で測定できる可能性があります。しかし、現状では測定できる樹種がスギ・ヒノキ・コウヤマキの3種類であることや、樹皮が残っていない場合は正確な伐採年代が分からないなど、いくつかの問題点もあります。

 今回紹介した笠形木製品は、確認できる最も外側の年輪はA.D.302年のものです。応神陵古墳の築造は、埴輪の編年から5世紀前半と考えられており、笠形木製品と古墳の築造年代には大きな差がみられます。これは、木製品の製作の際に木材の中心部を主に使用したためと考えられ、実際の製作年代はA.D.302年よりも後と考えられます。当館ではやや地味に展示されていますが、笠形木製品は考古学的、科学的な分析いずれにおいても重要な資料だということがお分かりいただけるでしょう。ぜひ一度じっくりとご覧ください。

展示品紹介 No.4

萱振1号墳 靫形(ゆぎがた)埴輪

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靫形埴輪のなかでも優品のひとつです。 描かれた直弧文。

 当館常設展示では中地階の前方後円形をした展示スペースを囲むように埴輪が並んでいます。その第2ゾーンの形象埴輪群のなかで、とびぬけて大きい器財埴輪のひとつが、平成元年(1989)に大阪府指定文化財に指定された萱振1号墳の靫形埴輪です。「靫」とは矢を先端が上向きに収納し背負う道具で、矢を先端が下向きに収納して腰に下げて使う道具を「胡簶(ころく)」と言います。胡簶は、日本列島では、古墳時代中期に朝鮮半島の影響を受けて定着しました。一方、靫は伝統的な矢の収納具と考えらえれ、主要な武装として用いられてきました。

 萱振1号墳の靫形埴輪は、箱形の矢筒部分と背板と言われる筒を安定させ背中を保護する部分からできています。矢筒部分・背板部分ともに直弧文が施されていますが、上部の残りは悪く、鏃(やじり)部分の表現は失われています。この資料は器財埴輪のなかでも比較的古い段階の資料で、靫形埴輪のなかで最大サイズを誇るとともに、直弧文に原初的な表現が見られることから最も古い例として知られています。この段階の器財埴輪は、ほとんどが靫や盾、甲冑などの武器や武具であることから防禦(ぼうぎょ)・防衛などの意図のものに立てられたと考えられます。伝統的な文様「直弧文」も呪術的な意味を持つと考えられることから、古墳を守護する意図が込められたのでしょう。

 萱振1号墳からは、このほかにも鰭付円筒埴輪が出土しています。こうした鰭付円筒埴輪は、この時期に出現する共通性の高い器財埴輪を伴うものが多いことが知られています。そして、前期後半における最大規模の前方後円墳が築造された大和北部の佐紀・盾列古墳群を中心として、近畿地方各地を代表する古墳に用いられていることが指摘されています。

 近つ飛鳥博物館所蔵品のなかでも大型品で、移動は困難を伴いますが、他館からの借用希望も多く、出張が多い当館の顔ともいえる展示品です。

展示品紹介 No.3

鹿谷寺(ろくたんじ)石塔模型

石塔模型 解説パネル
そびえる鹿谷寺石塔模型。 石塔の製作の解説パネル。

 当館の代表的な模型の一つと言えるのが、地階吹き抜け部分で展示している鹿谷寺石塔模型です。実物の石塔は、当館の北東約3.2kmの南河内郡太子町、二上山の中腹にある国史跡鹿谷寺跡にあります。鹿谷寺は、二上山(にじょうざん)の火山活動により形成された凝灰岩の石切場を再利用した石窟寺院(せっくつじいん)で、凝灰岩層の中央部分を削り残して造り出されたと考えられています。なお、二上山周辺は凝灰岩の産地で、周辺で採掘された凝灰岩は、古墳時代後期を中心に、石棺材として使用されていました。当館に隣接する近つ飛鳥風土記の丘に残る一須賀古墳群でも、家形石棺として使用されている古墳が数基みられます。

 この石塔は、層塔とよばれる形式で、屋根(笠)の層数から十三重層塔と称されています。現状では最上部の相輪(そうりん)は失われていますが、模型では埋没した下部も加えて復原されています。付近から出土した土師器や須恵器、和同開珎(わどうかいちん)などから、奈良時代の造営と考えられています。塔身南面に当たる模型の地階ホール側には、実物と同じく仏舎利孔が穿たれ、石塔表面のノミによる加工痕跡も再現されています。地階からだけではなく、1階からも見学していただくと、8mを超える高さを実感できるのではないでしょうか。

展示品紹介 No.2

前塚古墳 長持形石棺

中地階石棺 前塚石棺1
左から2番目が前塚古墳出土石棺。 組み立てられた全体像。
短辺 内部
縄掛突起部分を含め欠落している短辺。 細部まで精巧な作りです。

本館展示室、中地階のぐるりとまわる半円形の回廊が終わり、面前に見えてくるボリューム満点の展示が「石棺」です。このうち手前から2番目に展示されているのが、大阪府指定有形文化財の大阪府高槻市岡本町にある前塚古墳出土の長持形石棺です。

 前塚古墳は、被葬者が継体天皇と考えられている高槻市今城塚古墳の北側に位置する帆立貝形墳です。出土した埴輪から、百舌鳥・古市古墳群に大型前方後円墳が本格的に築造された中期の5世紀前半頃に築造されたと考えられる古墳です。昭和63年(1988)の調査で、全長94m、後円部径69m、前方部長25mを測り、周囲には幅10~17mの周濠がめぐることがわかりました。

 明治時代の開墾中に石棺が出土し、以前は大阪府茨木高等学校にありました。現在、茨木高等学校には複製品が置かれています。石棺は、兵庫県高砂市周辺で採掘されたと考えられる竜山石製で長さ約2m、幅約0.6m、高さ約0.8mを測ります。形状は、蓋は蒲鉾状の印籠蓋(いんろうぶた)で、短辺中央に各1個の縄掛突起(なわかけとっき)をもつ長持形石棺です。現在は失われていますが、蓋石短辺の両端部分には三角形の文様が沈み彫りで刻まれていたことが知られています。両端の小口や側壁の石材は内外面とも丁寧に加工され、組み合わされています。

 長持形石棺は、古墳時代前期の4世紀代中頃に出現し、中期にかけて用いられたものです。近畿地方の大型の前方後円墳からみつかることが多く、当時の最上位の石棺「王者の石棺」とも呼ばれています。また、長持形石棺にも突起配置や数によって形の違いがあり、墳丘規模によって示される階層差を反映していると考えられています。

展示品紹介 No.1

蕃上山(ばんじょうやま)古墳 男子人物形埴輪

蕃上山古墳男子人物埴輪1 蕃上山古墳男子人物埴輪2
端正な顔立ちの男子。 後ろを見ると襷がけがはっきりと。

 当館の中地階に降りた手前側には、たくさんの埴輪が展示されています。この「埴輪の世界」のコーナーには、向かって左から右にかけて、だいたい出現した順に各種の形象埴輪を展示しています。その中でも、最も右側にある、つまり最も新しく出現した形象埴輪が人物埴輪です。その人物埴輪として展示しているのが、青山2号墳の人物埴輪と、蕃上山古墳の巫女形埴輪、弓持ち人物形埴輪、そしてこの「男子人物形埴輪」です。

 蕃上山古墳は、古市古墳群に存在した墳丘長53mの帆立貝形墳で、5世紀中頃の築造と考えられています。周溝からは、円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・甲冑形・人物埴輪などの埴輪が出土しています。このうち、当館の常設展示には、人物埴輪以外に、家形・蓋形・甲冑形埴輪があります。なお、人物埴輪としては古い例です。

 この男子人物形埴輪は、襷をかけた男子の姿を表しており、神に仕える男覡(おかんなぎ)との説もあります。鼻筋が通る端整な顔立ちです。上衣の合わせ目は、埴輪からみて左側にあり、現在の男性とは逆です。両手とも手首より先は残存しませんが、左手を前方に掲げており、何かを持っていたのでしょうか。たくさんの埴輪の中に埋もれてしまいそうですが、お時間があれば一つの埴輪をじっくりみるのも良いのではないでしょうか。