展示品紹介

展示品紹介No.31 小島東遺跡 製塩土器

  今回は、中地階、王と民衆コーナーにある、薄くて、小さい土器片を紹介したいと思います。

  これは製塩土器といって塩づくりに使う土器です。古墳時代の塩作りは、海水から製塩土器と呼ばれる専用の土器を用いて行われていました。その工程は大きく3段階があり(壁面、イラストを参考にしてくださいね)、第1工程は採鹹(さいかん)で、海藻などを用いて海水の塩分濃度を高める工程です。第2工程は煎熬(せんごう)といって、濃い塩水を製塩土器で煮詰めて、塩の結晶を取り出します。第3工程は焼塩です。不純物を取り除き、運搬に適した塩にします。第2、3工程には炉が必要であり、製塩土器が用いられました

  大阪府岬町の小島東遺跡では、約35㎡と狭い調査区ながら、複数の製塩炉とおびただしい数の製塩土器片がみつかりました。遺跡の前面は海、背後には燃料である薪が得られる山といった立地で、まさに製塩に適した場所といえます。

  製塩土器の形状は時期によって変化し、また地域によっても異なる特徴がみられます。小島東遺跡では弥生時代末から古墳時代前半ごろには脚が付く製塩土器が用いられていましたが(写真1)、古墳時代の中頃には、器壁が薄く、コップ形をした丸底式の製塩土器が使用されるようになります(写真2)。その出土数は脚台式に比して圧倒的に多く、生産量が飛躍的に増加したことがわかります。塩は人々の生命を維持するにも必要なものです。加えて古墳時代の中頃以降、馬の生産や飼育が国内で行われるようになるなど、塩の需要はさらに高まったものと考えられます。大量生産を可能とする専業的な製塩活動にはヤマト王権の関与といったことも指摘されており、小さな製塩土器片ながら、政治動向をも反映するものとも言えます。
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脚台のある製塩土器片。 コップ形の製塩土器片、非常に器壁が薄い。
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塩つくりの風景。

展示品紹介No.30 伝安閑天皇陵古墳 カットガラス碗 復原模造品 

  常設展示室に入ってすぐに目に入る、第一ゾーン「近つ飛鳥と国際交流」の「B1.倭の五王の品々」のコーナーには、多くの復原模造品が展示されていますが、その中のひとつが今回紹介する、伝安閑天皇陵古墳出土カットガラス碗の復原模造品です。原品は、江戸時代に墳丘の崩れた部分から出土したと伝わり、現在は重要文化財として東京国立博物館で保管されています。

  出土したと伝わる安閑天皇陵古墳(高屋築山古墳)は、古市古墳群で最後に築造されたと考えられる大型前方後円墳です。墳丘長122m、後円部径78m、前方部幅100mを測り、前方部が大きく広がります。なお、中世には高屋城築城により墳丘が大きく改変されていることがわかってきています。

  古くから指摘されているように、本例の原品は、メソポタミアからイラン北西部にかけての地域で、5~6世紀頃に製作されたものと考えられ、正倉院に伝わる「白瑠璃碗」と同形・同大とされています。ただし、かたちを作るときに生じた歪みや、それによる外面にみられる円形の切子の割り付けが不揃いになっているところが異なるとされます。なお、切子は底部にやや大きいものが1個、その周囲に7個、それより上4段には各段に18個ずつがそれぞれみられます。この切子の数は、正倉院の白瑠璃碗と同じです。

  製法は、溶かしたガラス素材を吹き竿につけ、半球形の型に当てながら吹いて膨らませた「型吹き製法」で、切子は、回転する砥石を押し当てて磨き上げたものと考えられています。復原模造品である本例も、この製法に基づいて作られています。

  ハイビジョンコーナーで放映している「古市古墳群Vol.4 古墳の埋葬施設と副葬品」でも解説されていますので、併せてご覧いただければと思います。
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精巧な復原品

展示品紹介No.29 大修羅・小修羅 

  常設展示室の地階の一角は、大きなガラス張りになっており、重要文化財の「修羅」が展示されています。「修羅」とは、大きな石や木材をのせて運ぶソリなどの運搬具のことを言います。展示されている修羅は逆V字形をしており、尖っている方を頭部、左右に開いている方を脚部と呼んでいます。

  古市古墳群の仲津姫命陵古墳の南側には、八島塚古墳・中山塚古墳・助太山古墳という三基の方墳が東西に並んでおり、一括して三ツ塚古墳と呼ばれます。修羅は、八島塚古墳と中山塚古墳の間にある周濠から出土しました。修羅は、全長8.75mで、頭部を北に向けていましたが、その脚部端からも全長2.82mの修羅も出土みつかっています。このことから、大きい方を「大修羅」、小さい方を「小修羅」と呼び分けています。大修羅の東側に沿うように全長6.24mの棒も出土しており、修羅と共に用いるテコ棒と考えられます。オープン展示されている小修羅は複製品で、実物は藤井寺市立図書館に展示されています。

  大修羅とテコ棒は、アカガシの木を素材として作られています。アカガシは、日本で見られる木材の中でも堅く重いことで知られ、修羅やテコ棒など、重量物の運搬や、摩擦の大きな仕事をする道具の素材としては理想的です。しかし、大修羅に用いるような、二股に分かれた大型の木材では乾燥時に歪みが生じやすく、加工によって荷台となる平坦な面を作り出す必要があります。また、大修羅の頭部には、左右に貫通する穴が一つ、上面から側面に抜ける穴が左右一対見られ、脚部には同じく上面から側面に抜ける穴が三ヶ所にそれぞれ左右一対となって見られます。これらの加工を施すには、アカガシ材は堅く、多くの労力を必要としたと考えられます。
  小修羅はクヌギの二股に分かれた部分を用いて作られています。全体の作りは大修羅と同様ですが、加工は粗く、脚部に樹皮を多く残しています。

  三ツ塚古墳と修羅の年代は、出土状況や周辺で採取されている円筒埴輪から5世紀前半とみる説、助太山古墳の墳頂部に露出する凝灰岩が終末期古墳の横穴式石槨の一部ではないかと考えて7世紀とみる説があり、未だ確定していません。また、これらの修羅が運んだものは、石棺の石材などの重量物と推定されますが、明確な答えは出ていません。

  来館された際には、展示室地階で大修羅のスケールを感じてみてください。またその脇では、修羅の保存処理についての映像も見られますので、是非ご覧ください。
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大修羅 小修羅

展示品紹介No.28 蕃上山古墳 甲冑形埴輪

  蕃上山古墳の埴輪については、展示品紹介No1の男子人物形埴輪やNo25の巫女形埴輪でも紹介しているように、当館の形象埴輪を代表するものの一つです。今回は、このうちの甲冑形埴輪を紹介します。

  甲冑形埴輪は、冑や甲など身につける武具を表現した形象埴輪の一つです。主に腰から上の胴体部分を守る甲を表現した短甲形埴輪や、腰から大腿部を守る草摺を表現した草摺形埴輪などとして、個別につくられた埴輪もあります。蕃上山古墳出土の甲冑形埴輪は、円筒形台部の上に、冑から草摺までを連続して表現した埴輪です。

  上部の冑は、側面の中ほどにギザギザ状の線刻が施されていることから、三角板鋲留衝角付冑(さんかくいたびょうどめしょうかくつきかぶと)を表現したものと考えられます。また、冑から下の、後ろと左右に垂れ下がっている錣(しころ)も表現され、その表面にも冑部分同様のギザギザ状の線刻が施されていますが、これは、実物ではあり得ない表現です。冑の線刻の延長で、ついついギザギザの線刻を描いてしまったのでしょうか。なお、頂部には他の甲冑形埴輪の例と同様に特に飾り類は表現されず、円形のスカシが施されています。
  肩部には上腕部を守る甲である肩甲(かたよろい)をつくり、表面には短辺に平行する線刻が施されています。中央にはそれとは異なる縦方向の線刻があり、胸を守る頸甲(あかべよろい)の表現と考えられます。
  短甲には、冑部分にもみられたギザギザ表現のやや大ぶりなものが2条一組の横線の中に1段おきに施され、三角板鋲留の地板表現と考えられます。短甲の上端部には横方向の線刻に直交する縦方向の線刻が一部に残りますが、肩甲・頸甲の表現と重複する部分で、残存部分も少ないことから詳細な表現はよくわかりません。
  草摺は、残存部分が少ないのですが、横線で横長板を表現していると考えられ、それを切る2条一組の縦線は紐の表現でしょうか。短甲と草摺の境界部分は残存しませんが、奥に展示しているもう1点には一部が残り、斜め方向の線刻がみられます。短甲の縁、覆輪の表現かもしれません。

  円筒形台部の上に、冑から草摺までを連続して表現した甲冑形埴輪は、5世紀前半からみられると考えられています。本例は各部位の表現の省略化や形骸化がみられ、また本来の甲冑にはみられない表現もあり、新しい様相といえます。なお、同様に甲冑を表現する埴輪に武人形埴輪がありますが、両者は併存してみられることから、別々の意図を持ってつくり分けられる埴輪だったと考えられています。
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甲冑形埴輪の全体。 冑部分のギザギザ状の線刻。
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草摺部分。残存部分は少ないです。 奥の埴輪の腰部分。斜め方向の線刻。

展示品紹介No.27 南花田遺跡 墨書土器

  常設展示室1階の第一ゾーン「近つ飛鳥と国際交流」の奥、「文字の普及」のコーナーには、文字などを大写しした写真パネルとともに、いくつかの土器が展示されています。当館の展示品の中でも新しい時期の資料ですが、その中のひとつが今回紹介する南花田遺跡出土の墨書土器です。

  南花田遺跡は、南北方向の道路の難波大道と、大阪平野を東西に通る直線道路のひとつである大津道(近世の長尾街道)の交差点付近という交通の要衝に位置する遺跡で、官衙の可能性も指摘されています。この墨書土器は、1985(昭和60)年度に行われた発掘調査で確認された奈良時代の井戸(井戸109)からみつかったものです。墨書が描かれている土器は煮炊きに使われる甕ですが、煤などが付着していないことから煮炊きには使用されていなかったと考えられます。なお、表面の一部に黒い部分がありますが、これは土器を焼成した時に付いた焼きムラ(黒斑)です。

  人物の全身が描かれており、いつも展示している面の対面にも別の人物が描かれています。片方の人物は、向かって左向きの側面で、上衣、腰帯、袴の装束を描いた文官と考えられています。もう一方の人物は、坊主頭で装束は省略されて描かれ、前合わせの衣服でしょうか。墨書・墨画土器の一例ですが、この土器の上側に展示している他の墨書土器のように、顔を大きく描くことが一般的であるのに対し、人物の全身を描いている点は極めて特異です。

  この井戸の人面墨書土器がみつかったのと同じ層からは、ほかにも土師器皿の底部外面に「西」を墨書した墨書土器、斎串や口縁部を打ち欠いた須恵器長頸壺などがみつかっており、大祓(おおはらえ)などの祭祀に関わると考えられます。これらの遺物の時期は、8世紀でも古い段階に遡る可能性が指摘されていましたが、近年では8世紀中頃まで下る資料が含まれると考えられています。しかし、人面墨書土器の中では最古級の資料と考えられ、都城における人面墨書土器の出土遺構が井戸から溝・流路へ推移するという様相の中でも古い段階に位置付けられる点は重要です。
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展示状況。
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人物のアップ。これがいつも展示している面の墨書です。 対面に描かれている人物のアップ。

展示品紹介No.26 土師の里遺跡 大刀形埴輪

  常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」には、これまでの展示品紹介で紹介した埴輪(No.1:蕃上山古墳「男子人物形埴輪」、No.4:萱振1号墳「靫形埴輪」、No.20:津堂城山古墳「翳形埴輪」)をはじめ、多くの形象埴輪が展示されています。今回紹介する、土師の里遺跡出土の大刀形埴輪もこのコーナーで展示している埴輪ですが、多くの埴輪の中にあるので、目にとまりにくいかもしれません。

  この大刀形埴輪は、1979(昭和54)年度の発掘調査でみつかったもので、同じ調査区でみつかった出土品が、展示品紹介No.22で紹介した「紡錘車形石製品」や、No.18で紹介した「子持勾玉」の一部、古墳造営キャンプのコーナーで展示している土器類の多くです。

  この大刀形埴輪は、上部の主に柄部分が残る程度のため、全体の形状は不明で、残っている高さは約35㎝です。柄の下側、鞘部との境界付近には2段の突起があり、この突起から完存しない柄頭までの柄間に渡すように護拳用の帯が表現されています。その表面には、半球状の飾りが2個一対で沈線に区画された内側に付され、一部剥離しているものの8列分が残ります。上端部が欠けているため、もう少し上側まで伸びていたようです。この部分には三輪玉を表現する例があり、本例は帯に付された玉を表現したものと考えられます。残存する上端は、柄頭の一部と考えられ、護拳用の帯の表現を正面とし、向かって約90度左側に外側への突出が表現されて、楔形柄頭を表現した一部と推定できます。一方、突起より下側の鞘部は、一部が残るのみですが、その護拳用の帯側には線刻が施されています。残存部分が少ないため、線刻による文様の詳細は不明です。

  大刀形埴輪は、倭風の飾り大刀がモデルになっていると考えられています。古市古墳群内では、土師の里遺跡やその南側にある茶山遺跡などで、直弧文が施された柄頭部などの出土が確認されています。ただし、その出土数はあまり多くないと思われ、貴重な例といえます。
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ほかの埴輪の陰に隠れがちですが、見逃さないでください。 写真の下側には文様が描かれています。

展示品紹介No.25 蕃上山古墳 巫女形埴輪

  当館、中地階を降りて左手、たくさんの埴輪が並んでいますが、今回は、その中から、巫女形埴輪を紹介したいと思います。展示品紹介の記念すべき第1号は蕃上山古墳から出土した男子人物埴輪でしたが、その隣で凛とした佇まいをみせてくれます。同じく蕃上山古墳から出土しました。

  頭部が残存するのは手前の1体だけですが、後ろ2体も同じ衣服の表現がなされているのが分かります。いずれも、袈裟状の衣を右肩から左脇にかけて纏っています。その上から、ゆるく帯を巻いて前で結んでいるため、左脇の下部、輪になった衣が袋状にたるんでいます。また、襷がけの表現もみられます。後ろ側、襷が背中で×になっているのがわかります。

  蕃上山古墳の人物埴輪は近畿地方でも初期のものとして知られますが、こうした衣服の表現は、近畿地方の女子の埴輪に典型的にみられるものです。袈裟状の衣は、巫女の祭服である意須衣(おすい)を表現したものと考えられ、「巫女形埴輪」と呼ばれています。また、この袈裟状の衣は、食膳奉仕にあたった女官、采女(うねめ)の衣服(肩巾(ひれ))を表現したものとの見方もあります。また、蕃上山古墳の「巫女形埴輪」は腕が欠損していますが、両手を前につき出して容器をもった女子の埴輪が多くみられます。彼女たちも腕を前に出しているようにもみえますね。何かを捧げていたのでしょうか。
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凛と佇む。 帯の表現。
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襷がけをしています。

展示品紹介No.24 青山5号墳 埴輪円筒棺

  常設展示室、第二ゾーン内「横穴式石室の世界」の「古墳群と群集墳(古墳群)」コーナーで大ぶりな展示品が、今回紹介する青山5号墳の埴輪円筒棺です。

  青山古墳群は、墓山古墳やその陪冢とされる浄元寺山古墳、西墓山古墳の南西に位置し、南側の羽曳野市域にみられる軽里古墳群と一連の古墳群と考えられています。青山・軽里古墳群は、墳丘長72mの造り出し付円墳(もしくは帆立貝形墳)である青山古墳(青山1号墳)を中心に十数基からなります。青山古墳群では、1977・78(昭和52・53)年度の発掘調査で2~6号墳、1989・99(平成元・11)年度の発掘調査で7号墳が、明らかになっています。これらは、1号墳、4号墳、2号墳の順に形成された比較的大型の墳丘で構成されるグループと、6号墳、5号墳、3号墳の順に形成された小規模な墳丘で構成されるグループの、2つのグループが少なくともあり、それぞれ5世紀前半から末頃にかけて順次築造されました。各古墳の周溝から埴輪や須恵器が出土しています。

  青山5号墳は一辺7mの小規模な方墳で、主な埋葬施設は削平を受け不明ですが、周溝から人物埴輪や馬形埴輪の破片が出土しています。そして、周溝南東隅でみつかった埴輪円筒棺1基が今回紹介のものです。この埴輪円筒棺は、展示している2つの円筒埴輪を重ねて棺身とし、これら以外に小口側や継ぎ目を別の埴輪で閉じており、合計5個体の埴輪が使用されていたようです。これらの埴輪は、5世紀後半頃のものと考えられています。埴輪は、向かって左側が長さ約120㎝、直径60~70㎝で突帯が10条残り、右側が長さ90㎝、直径約55㎝で突帯が6条残りますが、いずれも底部は残っていません。埴輪棺の中からみつかったものはなく、棺として使用された時期はわかっていません。

  青山古墳群は古市古墳群を構成する古墳群ではあるものの、同時期の大型古墳に比べると明らかに小規模で、埴輪円筒棺はさらにその周辺に埋葬されており、被葬者たちの中に格差が認められます。古市古墳群の中における複雑な階層構造をうかがう上でも重要といえます。
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埴輪円筒棺の上には、青山古墳群のパネルと出土した須恵器も展示しています。 須恵器の陰に隠れかけていますが、みつかったようすの写真もご覧ください。

展示品紹介No.23 金山古墳 家形石棺復原模型

  当館の常設展示室に入って、最初に目に入るのは2つの大きな家形石棺の模型ではないでしょうか。これが今回紹介する、河南町芹生谷に所在する金山古墳の、横穴式石室内部の家形石棺の実物大模型です。その背面に、黒いワイヤーで表現しているのが、石室壁面の石積みで、左側の低い方が羨道、右側の高い方が玄室です。
  右側の家形石棺に開いた穴は、実際に開いていたわけではなく、石棺の中を覗けるように開けられています。この穴の前に立つと音声解説が始まり、金山古墳の被葬者が埋葬された時の様子を語ります。金山古墳は大小2つの円球を連結した双円墳という全国的にも珍しい墳形で、墳丘の長さは85.8m、周濠を含めると104mにもなる古墳です。小さいほうの円丘(北丘)は直径38.6m、高さ6.8mで2段に築かれ、大きい方の円丘(南丘)は直径55.4m、高さ9.4mで3段に築かれています。なお、葺石はくびれ部西側のみに存在しています。1991(平成3)年には国の史跡に指定されました。
  1946(昭和21)年に調査が行われ、北丘に長さ約10mの横穴式石室が存在し、内部には二上山産の凝灰岩を刳り抜いた家形石棺が2基並んでいることがわかりました。家形石棺内には朱が塗られていましたが、中身は既に盗掘されており、遺物はガラス玉や馬具、土器の破片などがわずかに出土したのみです。
  一方の南丘は発掘調査されておらず、詳細が不明でしたが、1993(平成5)年に実施された地中レーダー探査により、南丘にも横穴式石室が存在することが確認されました。
  当館の金山古墳の家形石棺復原模型をみると、向かって右側と左側の家形石棺では、蓋の形(天井の平坦面の幅、四角く出っ張っている「縄掛突起」の取り付き位置や角度など)が違うことがわかります。この家形石棺の特徴から、左側の家形石棺は右側の家形石棺より後につくられ、羨道に追葬されたと考えられます。金山古墳の築造年代は、石棺や石室の型式、出土した須恵器から7世紀初頭頃と考えられます。この時期はちょうど前方後円墳が造られなくなる時期にあたります。前方後円墳の築造が停止した後にもかかわらず、大規模な墳丘をもつことから、相当有力な勢力が造営した古墳であると考えられます。
  金山古墳は現在「史跡金山古墳公園」として復元整備されており、北丘の横穴式石室を覗くことができます。なお、この模型左側には整備前の写真があります。古墳は、当館から車で20分ほど行ったところにありますので、足を運んでみてはいかがでしょうか。
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家形石棺の模型だけではなく、背面のワイヤーにも注目してください。

展示品紹介No.22 土師の里遺跡出土の紡錘車形石製品

   今回は、中地階、古墳造営キャンプのコーナーにある小さい出土品の紹介です。上から見ると直径4~4.5㎝程度の円形、横から見ると台形の形をした石製品で、中心には0.5㎝くらいの孔があいています。一体何に使った道具でしょうか?これは、糸を紡(つむ)ぐ時に使用する錘(おもり)で、紡錘車(ぼうすいしゃ)、紡輪(ぼうりん)とも呼ばれます。展示品には石製のものと土製のものがありますが、木製のものや、6世紀には鉄製のものも出現します。真ん中の孔には糸巻棒(紡茎)を通して使用します。糸を強くするためには、撚りをかける必要があります。細かく裂いてつないだ繊維の先端を糸巻棒に引っ掛けて垂らし、紡錘車の回転を利用して糸に撚りをかけます。撚りがかかった糸は糸巻棒に巻き付けていきます。これを繰り返して糸巻棒にどんどん糸を巻き付けていきます。

   古墳時代の糸や布といった繊維製品は日本の土壌では残りにくく、ほとんどその現物は遺存しません。また、紡織の道具の多くは、木製品でありやはり遺存状況はよくありません。こうした中で、紡錘車は残りやすい道具ということができ、その出土は、糸を紡ぐ作業をしていたことを示すものです。当時の紡織を考える上でも重要な資料といえます。

   展示している紡錘形石製品のうち、右側2つは滑石製で文様が施されています。右(写真上)は上面に放射状の細い線を刻み、中央(写真左下)は側面に綾杉状の線刻が施されています。左(写真右下)は片岩製です。なお、石製の紡錘車は、古墳の副葬品にもみられること、鋸歯文などの文様を施す滑石製品があり、祭祀遺構からの出土もみられることから祭祀具としての評価もあります。
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じっくりご覧ください。

展示品紹介No.21 土師の里遺跡 盾形埴輪

   常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」、中地階奥の半円形にずらりと円筒埴輪などが並んでいる最初と最後にある埴輪が、今回紹介する藤井寺市土師の里遺跡における1988(昭和63)年度の発掘調査でみつかった盾形埴輪です。盾形埴輪は、その形や文様から他の埴輪と区別がつきやすく、器財埴輪では広くみられる種類です。

  両者ともよく似た形態で、円筒埴輪の前面に盾を貼り付けたものです。底部は残存しませんが、高さは90㎝程度で、突帯が現状で5条残りますが、6条であった可能性が考えられています。盾部は、上縁が緩やかな山形を呈しており、盾面は外側に主にギザギザ状の鋸歯文、内側に菱形の文様が描かれていますが、最初の方に展示している盾形埴輪の方が、それらの文様がやや密に施されます。なお、菱形の文様を描く際の割り付け線も残ります。この盾面の文様の特徴から、革製の盾をかたどったものと考えられます。また、両方の盾形埴輪とも、円筒部の一番上の段に線刻がみられます。最初の方が正面に近い位置に「×」状、最後の方が正面から約90度、向かって右側に、逆「凸」状で、その上部内側に逆「凹」状の線刻です。なお、この線刻が施されている一番上の段の外面は、最初の方にヨコハケが施される一方、最後の方にはヨコハケが施されていません。

   これらの盾形埴輪は、鞍塚古墳の北約40mで確認された埴輪棺に使用されていたものです。墓壙は長さ2.3~2.4m、幅0.8m、残っていた深さは0.3mで、いずれも盾面を下にして棺身とし、これら2点の盾形埴輪以外に、小口やスカシ穴の閉塞に朝顔形埴輪の口縁部や円筒埴輪なども使用されていました。内部から、人骨や副葬品は出土しませんでした。この埴輪棺がみつかった地点の周辺でも、複数の埴輪棺が確認されています。土師の里遺跡では多くの埴輪棺が確認されていますが、その中でも、この周辺は多くの埴輪棺が集中する地点です。
 
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最初の方の盾形埴輪です。 「✕」上の線刻が施されています。
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最後の方の盾形埴輪です。 右側面に線刻が施されています。

展示品紹介No.20 津堂城山古墳 翳(さしば)形埴輪

  常設展示室、第二ゾーン「埴輪の世界」に並ぶ形象埴輪の中で、ひときわ大きな埴輪がこれで、古市古墳群最古の大型前方後円墳と考えられている津堂城山古墳からみつかった翳(さしば)形埴輪です。

  この古墳からは、展示品紹介No.15で紹介した水鳥形埴輪をはじめ多くの埴輪がみつかっていますが、この翳形埴輪は、1980(昭和55)年の後円部西側の外堤の調査で出土しました。翳とは、団扇に長柄を付けたもので、宮中の儀式で天皇などの貴人の顔を隠すためにさしかけて用いられたもののことをいい、それとの類似から、翳形埴輪と呼ばれています。しかし、この埴輪の上側の、横に広がる板状部分の形状を衝立と考え、衝立形埴輪と呼ぶ意見もあります。なお、この横に広がる板状部分の表現は、船形埴輪の内側を仕切る壁や、椅子形埴輪の背もたれにも、似た表現がみられます。

  上部の横に広がる板状部分と、下側の円筒埴輪部分とは別作りです。板状部分は、復元径60~65㎝のドーム状の台の上にあり、幅131㎝、高さ76㎝で、裏表二対の支柱状のもので支えています。両面とも同様なハケ調整で仕上げられており、いずれかの面が正面(おもて面)として意図されたのではないようです。また、線刻などはみられません。ドーム状の台の下の基部は、円筒埴輪の中に入れられているためみえにくいですが、直径52~56㎝に復元されています。下部の円筒埴輪は、口縁部径77.8㎝、復原高133.8㎝、底部径60㎝の大型円筒埴輪で、上部をあわせた全体の高さは、2mにおよびます。なお、上部の横に広がる板状部分に線刻が施され、下側の円筒埴輪部分と一体成形したと考えられる翳形(衝立形)埴輪が、高石市大園遺跡でみつかっています。

  この埴輪は、類例の時期から、4世紀後葉から5世紀前葉の限られた時期にのみ見られる埴輪と考えられています。
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正面からみた翳形埴輪

展示品紹介No.19 讃良郡条里遺跡の扉材

  B2クラのコーナーの展示ケースに2枚の大きな板材がたてかけられています。これは、寝屋川市讃良郡条里(さらぐんじょうり)遺跡から出土した建物の扉板です。発掘調査では地中に掘りこまれた建物の柱の穴が見つかることはありますが、地上に本来あった建物自体が見つかることはほとんどありません。実際にどんな建物があったのか、その手掛かりのひとつになるのが建築部材です。しかし、建築部材の多くは木製品であるため、腐ってしまって残らないことがほとんどです。展示している資料は、井戸枠に転用されており、水漬けの状態であったため、良好な状態を保っていました。

  向かって左の扉板は長さが1.3m、幅0.41m、厚さは0.14m、右の扉材は長さが1.35m、幅0.47m、厚さは0.14mを測ります。どちらも、中央に把手状の突起(閂(かんぬき)受け)が削り出されています。真ん中に穴が開いていますが、これは閂を通すための穴です。観音開きの扉で、2枚一組で使います。中央の穴に横木、つまり閂を通すことによって、扉が閉められます。よく見ると、この穴のある部分が横方向に溝状にへこんでいます。これは、閂を引き抜く際の摩滅や、閂をかけている際の扉のがたつきなどによって表面がこすれて傷んでしまった痕跡、つまり当時の人々が使用した痕跡です。また、板の表面には加工の際の工具の痕跡も残っています。観察してみてくださいね。

  井戸枠には板材に混じって他に3枚の扉板が再利用されていました。本来2枚で1セットの扉となりますが、展示されている2点は閂受けの形状が異なっていること、孔の大きさが異なっていることから、組み合うものではないと考えられます。5枚の内、セット関係と考えられるのは1組だけで、4セットの扉が1基の井戸に再利用されていたことになります。こうした扉は倉庫に使用されたものと考えられますが、複数の立派な倉庫の存在は讃良郡条里遺跡の性格を考える上でも重要であるといえます。
 
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壁に展示された2枚の扉 使用の痕跡
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加工の痕跡

展示品紹介No.18 近つ飛鳥博物館常設展示室の子持勾玉

  「子持勾玉」は、古墳時代の文物のなかでもっとも特殊な遺物のひとつです。子持勾玉は、古墳時代中期後半から後期にかけて広く用いられ、全国で450例を超える出土が知られています。しかし、その形態的意味、使用法などの定見は、資料は蓄積されてきたにもかかわらず明らかにできていないもののひとつです。

  大阪府立近つ飛鳥博物館には、常設展示室に府内の5点の子持勾玉が展示されています。「古墳造営のムラ」の土師の里遺跡3点、「開発と技術」の池島・福万寺遺跡の2点の5点の子持勾玉が展示されています。いずれの資料も集落遺跡の包含層からの出土で詳細な時期については明らかではありません。また、表現や形態もそれぞれ異なっています。

  子持勾玉は、時期の明らかな資料の検討から、当初から通常の勾玉とはやや容姿を異にした形状にはじまったと考えられます。基本的には、時期を追って粗雑化していくようです。子持勾玉の特徴は、取り付けられた「子」勾玉にあります。「勾玉」というモチーフの使用については、玉杖柄頭飾、刳抜式石棺の枕や石枕の立花などへの装飾的配置や大阪府紫金山古墳の勾玉文鏡など興味深い事例が存在します。もしかすると、勾玉の持つ「呪力」を数量的に増幅するなどの意図を持っていたのではという意見もあります。みなさんも常設展示室でじっくりと見ていただいて、ぜひ考えてみてください。
 
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土師の里遺跡の子持勾玉 池島・福万寺遺跡の子持勾玉

展示品紹介No.17 馬の復元模型と古代の馬

  常設展示室の地階、黄泉の塔の真下にあたる場所に、今回紹介する古代の馬の展示があります。展示では、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡から出土した馬の骨格と、その骨格をもとに復元した骨格模型、骨格模型に肉付けした馬の復元模型が並んでいます。

  考古学的には、日本列島で馬が本格的に飼育され、普及するのは古墳時代中期以降と考えられます。古墳時代「河内湖」の縁辺に位置する遺跡からは、5世紀頃の馬の骨や歯、飼育に必要な塩をつくる製塩土器、鞭(むち)やブラシの柄、鞍(くら)、鐙(あぶみ)が出土しています。これらのことから、馬の飼育・調教をおこなう「牧」があったと考えられています。日本書紀にも、河内馬飼部(かわちのうまかいべ)の記述がみられます。これらの遺跡からは、朝鮮半島に由来する土器などが多く出土していることから馬の飼育など新たな技術には渡来人が深く関与していたと考えられてます。

  展示されている骨格は、上顎から上部を欠いていますが、古墳時代の馬の姿が分かる貴重なものです。年齢は5~6歳、体高(肩の上からつま先までの長さ)127cm程度と推定されていますが、性別は分かりません。現在のサラブレットでは体高が150cm程度であることを考えると非常に小柄な馬でであったようです。長辺約200cm、短辺約150cm、深さ約30cmの土坑に横たわるようにして埋葬されており、死後に丁寧に扱われたことが分かります。

  発掘された骨格は、宮崎県に現存する御崎馬(みさきうま)に最も近いため、御崎馬を参考に全体像の復元がなされました。展示されている馬の場合、顎から推定できる頭部の大きさは、現存する馬よりも大きく、体の割に大きな頭をしていたようです。この頭部の大きさが、個体差か当時の品種による違いかは分かりませんが、本資料が古墳時代の馬の姿を知るうえで貴重なものであることには違いありません。

  なお、復元模型には「遥馬(はるま)」という愛称がつけられています。ご来館の際には、是非「遥馬」と背比べをして、古墳時代の馬の大きさを実感してみてください。
 
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左から、出土資料(ケース内)・復元模型・骨格模型です。

展示品紹介No.16 アリ山古墳副葬庫埋納時再現模型

  今回紹介する展示物は、中地階正面、常設展示第2ゾーンの「王と民衆」コーナーにある模型です。アリ山古墳は、古市古墳群最大規模の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の陪冢(ばいちょう)とされる5世紀前半の古墳です。一辺45m、高さ4.5mの方墳で、墳頂部で中央・南・北の3つの施設がみつかっています。今回紹介する模型は、これらの施設のうち、最も残りがよく、大量の鉄製品が出土した北施設を復元したものです。

  この施設には、多数の鉄製品が納められていました。東西3.02m、南北1.38mの長方形の土壙に木製の容器が設置され、その中に武器・農工具が上・中・下の3つの層に分かれて置かれていました。人の遺体が埋葬された痕跡はうかがえなかったことから、副葬品埋納用の施設と考えられています。

  上層は、鉄鏃1542本からなります。32の群に分かれてみつかっていることから、約50本の矢を一束にしておかれていたようです。鏃の形は、細長いものと三角形状のものの2種類に分けられます。このうち三角形状のものには、先端側と下方両側の計3箇所に孔がみられます。その目的はよくわかりませんが、矢が飛ぶときに音を発するようにするためという考えがあります。中層では、槍8本、矛1本、刀77本、剣8本からなる武器が置かれていました。なお、刀と剣は特に区別されずに置かれていました。下層では、斧、蕨手刀子、鑿、錐、ヤリガンナ、鋸、鎌、鍬など929点の鉄製農工具が、10群に分けておかれていました。

  模型は、向かって左側は矢の一部の部分的な復元に留めて、下の農工具まで観察できるように工夫されています。これら多量の鉄製品は、発見時には木製の柄の部分などはほとんど朽ち果てて残っていませんでした。こうした朽ち果てた細部までリアルに復元した模型は迫力があります。
 
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写真手前側は、下層までみえるようになっています。 三角形状の鉄鏃には、3か所に孔が開いています。

展示品紹介No.15 津堂城山古墳 水鳥形埴輪(複製品)

  当館で1階から中地階へ降りたすぐのところに展示しているのが津堂城山古墳出土水鳥形埴輪(複製品)です。津堂城山古墳は、古市古墳群で最初に築かれた大型前方後円墳で、墳丘長は210mを測ります。水鳥形埴輪は、墳丘東側の古墳周濠に築かれた、一辺17mの島状遺構南側傾斜面からみつかりました。2体は1mを越える大きなもので、残る1体は一回り小さいものです。大形の2体はほぼ同形同大で、いずれも基部となる円筒に鰐がめぐり、その上に踏ん張るように立っています。ちょうど脚がのる部分の鰐は、水かきを意識した形状で、非常に写実的です。また、立体的な翼や嘴の鼻孔などにも注目できます。

  これらの水鳥形埴輪は、全国の出土例の中でも最古かつ最大のもので、2006年6月には国の重要文化財へ指定されました。ちなみに、その実物は藤井寺市の「アイセルシュラホール」で展示されています。
 
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島状施設や濠を復元した3体の展示状況

展示品紹介No.14 一須賀O-5号墳出土状態再現

  当館の中地階「黄泉の国」のコーナーにあるのが、一須賀O-5号墳出土状態再現です。横穴式石室は、遺体を安置する空間である「玄室」と、そこに至る通路の「羨道」からなり、この再現展示は、玄室部分の床面付近を中心としています。なお、この石室は、玄室長3.45m、幅2.0m、羨道長3.0m、幅1.15mの大きさで、この古墳の築造時期は、6世紀後半と考えられています。

  この古墳には、少なくとも2人が葬られていました。そのうち1人は、板状の石材がまとまる部分に葬られていました。これらの石材は、組合せ式の家形石棺を構成しています。もう1人は石棺の横に置かれた木の棺に葬られていました。木の棺そのものは残っていませんでしたが、板材をつなぎ合わせていた釘などの位置から安置されていた場所が推定できます。さらに石棺の手前(羨道側)にみられる釘から、ここにも木の棺が安置されていた可能性が考えられます。

  O-5号墳からは、須恵器や耳飾り、鉄の刀などがみつかりました。このほかに、展示品紹介No.12で紹介した竈などの炊飯具のミニチュアが出土しています。このミニチュア炊飯具の出土によって、渡来人やその子孫がO-5号墳に葬られていたと想定することもできます。
 
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ガラスにのって直接真上から見学できます。 手前側。石室の袖部分も表現されています。
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石棺の奥の土器。展示品No.12で紹介したミニチュア炊飯具形土器の甑があります。 木棺の奥にも土器がまとまっています。こちらにはミニチュア炊飯具の竈があります。

展示品紹介No.13 役人たちの墓誌3点(複製品)

  展示室1階奥のF「古墳の終りと墓」というコーナーのうち、F1「文字と品物」には3点の墓誌(複製品)が展示されています。墓誌とは被葬者の名前や出自、経歴、没年、埋葬年などを銅板や石板などに刻み、墓に納めたものです。官人を中心に、7世紀後半から8世紀までの16例が現存しています。中には火葬骨を入れる骨蔵器に記したものもあり、墓誌を納める風習が火葬の普及と連動することがわかります。

  展示されている3点は、①威奈大村(いなのおおむら)の金銅製球形の骨蔵器(国宝)、②高屋枚人(たかやのひらひと)の石製墓誌(重要文化財)、そして③船王後(ふねのおうご)の銅製墓誌(国宝)です。

  このうち①は、江戸時代に香芝市穴虫から出土したものです。威奈大村は持統朝から朝廷に仕え、小納言・侍従・左少弁・越後城司(越後守のこと)などを歴任して、慶雲4年(707)4月24日に46歳で越後で病死した後、同年11月21日に大倭(やまと)国葛木下(かずらきのしも)郡山君(やまきみ)里の狛井山崗(こまいやまのおか)に葬られました。

  ②は、江戸時代に太子町太子で見つかりました。高屋枚人は正六位上という位階を持つ常陸(ひたち)国の大目(だいさかん)(国司の第4等官)で、宝亀7年(776)11月28日に埋葬されました。書かれた内容はこれだけです。なおこれには蓋(ふた)石も付いています。

  ③はやはり江戸時代に、柏原市国分市場の松岳(まつおか)山から出土したと伝えられます。船王後は船氏の中祖の王智仁の子の那沛故の子として敏達天皇の時に生まれ、推古・舒明朝に朝廷に仕え大仁の位を賜った後、辛丑年(=舒明13年)(641)12月3日に亡くなり、戊辰年(=天智8年)(668)12月に松岳山の上に葬られました。埋葬時期が遅いのは、妻の安理故能刀自(ありこのとじ)の死後に改葬・合葬されたためです。祖父の王智仁は『日本書紀』の欽明・敏達紀に見える、船氏の祖の王辰爾(おうしんに)のことで、船氏は河内にいた百済系の渡来氏族です。

  3点はいずれもここからそれ程遠くない所で見つかったものですが、その他にも太子町春日からは紀𠮷継(きのよしつぐ)の墓誌(塼製)が出土しています。また奈良県五條市東阿田町で見つかった山代真作(やましろのまさか)の金銅製墓誌によると、彼が住んでいたのは河内国石川郡山代郷でしたが、それは河南町山城にあたるとみられます。
 
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こちらの展示です。 ① 威奈大村の金銅製球形の骨蔵器(国宝)
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② 高屋枚人の石製墓誌(重要文化財) ③ 船王後の銅製墓誌(国宝)

展示品紹介No.12 一須賀古墳群出土 ミニチュア炊飯具形土器

  今回は一須賀古墳群出土のミニチュア炊飯具形土器を紹介します。展示室に入ってすぐ左手のケースには一須賀古墳群の資料が展示してあります。その中で、なんともかわいらしい土器がありますが、これは、竈(かまど)・鍋(なべ)・甑(こしき)といった炊飯(すいはん)具(ぐ)のミニチュアです。それぞれ、別々に作られていて、一番下にあるのがカマドです。竈には庇(ひさし)が表現されているものもあります。真ん中は鍋、そして一番上にあるのが甑です。甑の底部には孔があいて、鍋の上に据えて使う、いわゆる蒸し器です。

  6世紀を中心に古墳に副葬品されたミニチュア炊飯具形土器ですが、そのもととなる実用品は、これより古く、5世紀に渡来人によって日本列島にもたらされたと考えられます。もともと、日本にはなかった土器で、須恵器生産や馬匹(ばひつ)生産など、様々な新しい技術とともにやってきた渡来人たちの道具であったと考えられます。

  しかし、ミニチュアの炊飯具形土器は、朝鮮半島と日本列島を比較すると、日本での出土例の方が圧倒的に多く、特に河内や、大和、琵琶湖南西部の群集墳(ぐんしゅうふん)に特徴的に認められる副葬品です。一須賀古墳群でも20基ほどの古墳からみつかっています。その故地については、中国では、同じ形のものではありませんが、小型の炊飯具を副葬する風習があることから、中国系渡来人とする意見もあります。いずれにしても、こうしたミニチュアを古墳に副葬する風習はこれまでの日本にはなく、渡来人との関わりが考えられるものであり、一須賀古墳群の被葬者に渡来系の人々が含まれていたことを示すものといえます。

  実は展示室には、もう一か所、ミニチュア炊飯具形土器が展示されているのですが、どこでしょうか?
 
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展示では様々な形のものが並んでいます。 分解する左から「竈(かまど)・甕(かめ)・甑(こしき)」。
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甑の底もちゃんと作ってます!

展示品紹介No.11 安福寺石棺 複製品

  展示品紹介No2では前塚古墳出土長持形石棺を紹介しましたが、その手前側に展示しているのが、柏原市玉手町にある安福寺の境内に安置されている刳り抜き式割竹形(わりたけがた)石棺の複製品です。実物は1990(平成2)年には国の重要文化財に指定され、今でも安福寺境内で見ることができます。

  この石棺は、蓋と考えられていますが、当館の展示では身の方も推定復原しています。長さ256㎝、幅90㎝、高さ47㎝で、使われている石材は香川県鷲の山(わしのやま)産と推定されています。石棺の小口には縄掛け突起があったようですが、欠損しており痕跡だけ見ることができます。石棺の合せ口に近い外面には「直弧文(ちょっこもん)」という特殊な文様が線刻されています。近年、事例の増加や研究の進展により、この文様を直弧文とは別の文様とする意見が出されており、文様研究の上でも非常に重要な資料といえます。

  この石棺がそもそもどの古墳に埋め置かれていたのか、という点については、古くから近在する玉手山古墳群の3号墳とする伝承があります。3号墳は、墳丘長100mの前方後円墳で、2004(平成16)年には埋葬施設の発掘調査が行われました。残念ながら、埋葬施設は大規模な盗掘を受けており、蓋と考えられる安福寺境内の石棺と組み合わさる石棺の身は発見できませんでした。しかし、木棺を安置した際にみられる粘土棺床が認められなかったことなどからは、石棺を納めた竪穴式石槨であったと推定でき、安福寺境内の石棺が納められていた可能性も考えられます。
 
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縄掛け突起も推定復原しています。 文様にはスポットライトを当てています。

展示品紹介No.10 下級役人の勤務評定木簡【複製品】

  展示室1階奥の「E文字の時代」に展示している木簡の中には、平城宮で働く下級役人の勤務評定に関わるものが2点あります。

  その1つ「去上従八位下村合氷守公麻呂〈年五十四/河内国志紀郡〉上日二百十船稲」と書かれた木簡は、長さが292㍉、厚みが30㍉もある大きなものです。上端の右半分が欠けていますが、そこに孔が横方向にあいているのがわかります。頭に書かれた「去上」は、去年の勤務評定の結果(考第)が上であったことを示します。当時の役人には、常勤の人(長上官)と非常勤の人(分番官)がおり、分番官は年に140日以上勤務すると、勤務態度が評価され(考課という)、上・中・下の考第がつけられました。そして数年間(8年以上から後に2年短縮)の成績を元に、位階が上がります。

  この木簡の主人公は、従八位下という位の村合氷守公麻呂(むらあいのひもりのきみまろ)です。彼は54歳で、河内国志紀郡に本籍を持っています。志紀郡は石川と大和川が合流する辺りの石川西部で、今の八尾市南部・柏原市西部から藤井寺市・羽曳野市にかけて広がっていました。最後の「上日二百十船稲」は、今年の上日(勤務日数)が210日であると、船稲(ふねのいね)という人が後から書き込んだ部分です。考課を受けるに十分な日数です。このデータを元に、今年度の成績がつけられたはずです。上端の孔は事務処理のために、紐を通して同種の木簡を綴じるのに使われました。

  もう1つ、「去上位子従八位上伯祢広地〈年卅二/河内国安宿郡〉」という木簡も同種のもので、長さが39.4㌢、厚みが31㍉とさらに大きいものです。やはり上の方に、孔が横方向に貫通しています。伯祢広地(はくねのひろち)の本籍の地は河内国安宿(あすかべ)郡です。安宿郡は大和川以南で石川以東、今の柏原市南部から羽曳野市にかけての辺りです。位階の上に書かれた位子は、彼が出仕するようになった理由にあたります。すなわち六位以下、八位以上の人の嫡子で、21歳以上になっても官途についていない者を試験して、大舎人(おおとねり)や兵衛、使部(しぶ)(諸官司の雑用をこなす下級役人)などに採用する規定に従って、役人になったのです。しかし先の木簡と違って、この年の勤務日数が書かれていません。何らかの事情で、彼は働けなくなったのでしょうか。

  これらの木簡は文官の人事を掌る式部省という役所跡の近くから出土しました。二人とも本籍は河内国に置いたまま平城宮で勤務していました。恐らく家族を故郷に残しての単身赴任だったのでしょう。家族と離れて都で成績を気にしながら勤務に追われても、なかなか出世できない下級役人たちの悲哀が感じられるようです。

  なお考課に関わる木簡は用が済むと、刀子(とうす)で表面を削って文字を消して再利用されます。そのため形のある木簡よりも削屑(けずりくず)の方が大量に出土しています。
   
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正面の展示ケースです。 「去上従八位下村・・・」木簡です。
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手前の役人の机の展示です。 「去上位子従八・・・・」木簡です。

展示品紹介No.9 堂山1号墳 三角板革綴衝角付冑・錣三角板革綴短甲【大阪府指定文化財】

  今日は、堂山1号墳から出土した甲冑を紹介します。堂山1号墳は大東市に所在する円墳です。直径25mと小規模ながら、甲冑や多くの鉄製品が副葬されており、地域の首長墓との評価がなされています。三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)、三角板革綴短甲(さんかくいたかわとじたんこう)、なんだか、長々と漢字がつづいて難しい名前ですね。でも、分解してみると、意外とわかりやすかったりします。

  まず、三角形に注目です。かぶとにもよろいにも三角形の鉄の板が組み合わさっています。そして小さい孔が並んでいますが、この孔に革紐を通して板をとめています。よく見ると、革紐が残っている部分もあります。基本的な枠組みを作って、その中に方形や三角形の地板をはめ込んで固定するもので、堂山1号墳の資料は三角形の地板を革紐で綴じている、というわけです。規格的なフレーム構造によって製作されており、「定型化した甲冑」と言われます。当時、鉄素材は国産ではなく、海外から持ち込んで製品が作られていました。甲冑は鉄製品のなかでも最高水準のものであり、規格性の高さからも、ヤマト王権のもとで一元的に生産、管理されていたと考えられます。

  いつもは中地階、ゾーン2に展示していますが、現在、特別展示室に出張中です。夏季企画展『堂山1号墳ーその被葬者像をさぐるー』では、ぐるり、360度から見ることができます。よろいの後ろ姿にも注目してみてください。また、かぶとの天頂部にも注目です。前面のとんがっている部分を衝角といいますが、天頂部にも注目してみてください。小さな孔が開いています。実は2か所あるのですが、1つは良く分かります。この孔は、三尾鉄(さんびてつ(みおがね))を紐づけた孔だと考えられます。三尾鉄は残っていませんが、三又になった鉄製品で、鳥の羽などを括り付けていたと考えられます。U字状になった板が錣(しころ)で、冑にとりついて頸部を保護するものです。周囲には小さな孔があいていていますが、革紐を孔にとおして縁取りしています。じっくり観察してみてください。
   
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とがった右側の衝角部分が前です。 冑の下について頸を保護します。
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後ろからみると大きさを実感できます。 特別展示室にじっくり見てみよう!

展示品紹介No.8 美園古墳 家形埴輪1【重要文化財】

  当館の展示品の中に、ひときわ秀麗なたたずまいの埴輪があります。「埴輪の世界」の独立ケースに納められた、大阪府八尾市美園古墳出土の家形埴輪です。美園古墳はいわゆる「埋没古墳」であり、1981年の発掘調査で確認された一辺約7mの小規模な方墳で、古墳時代前期の4世紀の古墳です。周溝から多数の壺形埴輪とともに、精巧な家形埴輪が2点出土しています。

  常設展示室に展示されている家形埴輪は入母屋造の屋根形式で高さ70㎝を測る大型品です。高床式と考えられる2段の構造で、屋根には鰭飾りがつけられている格式の高い建物を模したものです。四方の壁にはそれぞれ窓を設け、柱に線刻で盾を描いていることから、祭祀・儀礼の行われた建物を表現したという意見もあります。内部には、網代編みのベット状施設が表現されています。

  建物外壁をはじめ内部の細部まで丁寧に表現されていることから、古墳時代における建物の建築様式や内部構造を知る上で貴重な資料として知られています。美園古墳からは、このほかに切妻屋造の家形埴輪、壺形埴輪などが出土しています。1995年(平成7年)に家形埴輪2箇・壺形埴輪2箇が国指定重要文化財に指定されています。これらの埴輪についても、機会を見てご紹介したいと思います。近つ飛鳥博物館、そして大阪の秀逸な埴輪のひとつです。
   
美園家形1
優雅な姿の高床式の建物
盾表現 ベット状遺構
盾の表現 内部のベット状施設

展示品紹介No.7 長屋王邸跡から出土した木簡【複製品】

  展示室1階奥には「E 文字の時代」として、墨書土器や木簡、文房具などを展示したコーナーがあります。その中の木簡を取り上げます。

  木簡は木の札に文字を書いたものを言います。日本における木簡の出現は7世紀の前半のことですが、大量に使われるようになるのは7世紀後半以降で、飛鳥・藤原京・平城京などの都の跡で特に多く出土しています。律令制の成立に伴って、さまざまな行政処理が必要になったことによります。そして紙がなかったから木を用いたというのではなく、日常的なメモや付札には木簡を、正式な書類は紙にというように、木と紙の使い分けをしていたようです。

  「住吉郡交易進贄塩染阿遅二百廿口之中〈大阿遅廿口/小阿遅二百口〉」と書かれた長さ21.9㌢の木簡は、平城京左京三条二坊にあった長屋王の邸宅跡から出土したものです。長屋王は左大臣に昇りながら、天平元(729)年に謀反の疑いをかけられて自殺した悲劇の宰相です。王邸からは3万5千点余もの木簡がまとまって見つかりました。時期は平城京遷都直後の710年代です。摂津国住吉郡が交易(購入)して塩漬けの阿遅(アジ、鯵のこと)を220疋(内訳は大が20疋、小が200疋)を入手して、王邸に進上すると言っています。木簡の上下両端の左右にある切り込みは、そこに紐をかけて鯵を入れた荷物にくくりつけるためのものです。

  表に「百済郡南里車長百済部若末呂車三転米十二斛〈上二石/中十石〉」、裏に「元年十月十三日〈田辺広国/八木造意弥万呂〉」と書かれた木簡(長さ27.1㌢)も、長屋王邸跡から出土しました。摂津国百済郡南里の車長(くるまのおさ)である百済部若末呂(くだらべのわかまろ)が、車3両に米を12斛(こく)載せて王邸まで運ぶことを、元年10月13日に田辺広国と八木造意弥万呂(やぎのみやつこおみまろ)が報告している木簡です。米の単位の斛は、1斗の10倍、1升の100倍で、80㍑ほどにあたります。内訳では石という字で書いています。当時既に車を使ってモノを運んでいたこと、それを統括する車の長がいたことを示す興味深い木簡です。これには切り込みはありません。米俵は大量にあったので(当時の1俵は5斗入りなので、恐らく24俵)、それに結びつけたのではなく、若末呂が携えて行ったのでしょう。元年は霊亀元(715)年のこととみられます。
 
文字の時代 木棺展示
1階展示室の最奥部「文字の時代」。 展示されている木簡複製品。
 
住吉郡 百済郡
「住吉郡・・・」木簡。 「百済郡・・・」木簡(右:表、左:裏)

展示品紹介No.6 一須賀古墳群WA1号墳 金銅製沓(くつ)復原模造品

  常設展示室に入ってすぐ左手の展示ケースには、一須賀古墳群からみつかった資料を展示しています。その中でも金色に光り目を引くのが、金銅製沓復原模造品です。復原模造品のもとになった金銅製沓は、石棺内でばらばらになって発見されました。その表面には、幅2㎝前後の二重の六角形の亀甲文(きっこうもん)が多量に打ち出され、二重の枠内には20点以上の列点文がタガネなどで打ち出されています。さらに、銅線をねじった先に、径約9mmの円形の歩揺(ほよう)を綴じつけ、それを表面・底面にまで多量に飾っています。

一須賀古墳群WA1号墳は、直径30mの円墳で、古墳群中最大規模の全長15mの両袖式の横穴式石室を埋葬施設とし、奥壁に接して組合式家形石棺がみつかりました。その立地が、やや独立した尾根の頂上部である点も、古墳群の中で特異な点です。出土遺物には、ここで紹介している金銅製沓以外に、金銅装単龍環頭大刀柄頭(こんどうそうたんりゅうかんとうたちつかがしら)片や金銅製冠(こんどうせいかんむり)片などがあり、盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が確認されています。これらから、この古墳の被葬者は有力首長と推定できます。
  当館の保管資料の中では、貸し出されることが多い資料ですので、しばしば片方になっていますが、じっくりとご覧いただければと思います。
 
 
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沓の表面には六角形の亀甲文が打ち出され、全体に歩揺が付けられています。

展示品紹介No.5 応神陵古墳外堤 笠形木製品

  当館の地階、「現代科学と考古学」のコーナーでは、科学的な手法による分析や遺跡の探査などを解説しています。今回取り上げる笠形木製品は、同コーナーの年輪年代測定を紹介する資料として展示されています。

  古墳の墳丘や段築の平坦面には、埴輪や埴輪を立てた痕跡とともに、これらとは違う形の柱穴が見つかることがあります。また、周濠など水が多く存在する場所では、有機物が残りやすく、木製の柱の上に乗っていたと考えられる笠形木製品や鳥形木製品などの出土が知られています。これらの木製品は、木製樹物(たてもの)や木製埴輪と呼ばれ、墳丘上の柱穴に立て並べられたと考えられています。当館の笠形木製品は全体の約半分が残っており、最大幅は74.0cm、高さは21.5cmを測るコウヤマキの巨木を用いたものです。コウヤマキは、耐久性が高い貴重な材であるとともに、長大な割竹形木棺に用いられるなど古墳造営とも密接にかかわる重要な材料です。この資料は、笠形木製品の中できわめて大きなもので、応神天皇陵古墳という巨大な大型前方後円墳に相応しい立派な製品です。

  日本のように、季節による寒暖や降水量などの変化が大きい地域では、1年の内で樹木の生長度合いに差ができるため、毎年年輪が形成されます。年輪はもっとも樹皮に近い部分が新しく、樹木の中心になるほど古くなります。この年輪間の幅を測定してその変化のパターンを記録します。これを伐採年が確実に分かっている樹木の年輪と、過去の木材の年輪間の測定値の組合せが重なる部分をつないでいき、年代の基準となるパターンを作成して樹木の伐採年を調べるのが「年輪年代測定法」です。年輪年代法では、ずばり伐採の実年代が1年単位で測定できる可能性があります。しかし、現状では測定できる樹種がスギ・ヒノキ・コウヤマキの3種類であることや、樹皮が残っていない場合は正確な伐採年代が分からないなど、いくつかの問題点もあります。

  今回紹介した笠形木製品は、確認できる最も外側の年輪はA.D.302年のものです。応神陵古墳の築造は、埴輪の編年から5世紀前半と考えられており、笠形木製品と古墳の築造年代には大きな差がみられます。これは、木製品の製作の際に木材の中心部を主に使用したためと考えられ、実際の製作年代はA.D.302年よりも後と考えられます。当館ではやや地味に展示されていますが、笠形木製品は考古学的、科学的な分析いずれにおいても重要な資料だということがお分かりいただけるでしょう。ぜひ一度じっくりとご覧ください。
 
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笠の形のかなりの重量物です。 裏側は四角い柱に通した穴の形が見えます。

展示品紹介No.4 萱振1号墳 靫形(ゆぎがた)埴輪

  当館常設展示では中地階の前方後円形をした展示スペースを囲むように埴輪が並んでいます。その第2ゾーンの形象埴輪群のなかで、とびぬけて大きい器財埴輪のひとつが、平成元年(1989)に大阪府指定文化財に指定された萱振1号墳の靫形埴輪です。「靫」とは矢を先端が上向きに収納し背負う道具で、矢を先端が下向きに収納して腰に下げて使う道具を「胡簶(ころく)」と言います。胡簶は、日本列島では、古墳時代中期に朝鮮半島の影響を受けて定着しました。一方、靫は伝統的な矢の収納具と考えらえれ、主要な武装として用いられてきました。

  萱振1号墳の靫形埴輪は、箱形の矢筒部分と背板と言われる筒を安定させ背中を保護する部分からできています。矢筒部分・背板部分ともに直弧文が施されていますが、上部の残りは悪く、鏃(やじり)部分の表現は失われています。この資料は器財埴輪のなかでも比較的古い段階の資料で、靫形埴輪のなかで最大サイズを誇るとともに、直弧文に原初的な表現が見られることから最も古い例として知られています。この段階の器財埴輪は、ほとんどが靫や盾、甲冑などの武器や武具であることから防禦(ぼうぎょ)・防衛などの意図のものに立てられたと考えられます。伝統的な文様「直弧文」も呪術的な意味を持つと考えられることから、古墳を守護する意図が込められたのでしょう。

  萱振1号墳からは、このほかにも鰭付円筒埴輪が出土しています。こうした鰭付円筒埴輪は、この時期に出現する共通性の高い器財埴輪を伴うものが多いことが知られています。そして、前期後半における最大規模の前方後円墳が築造された大和北部の佐紀・盾列古墳群を中心として、近畿地方各地を代表する古墳に用いられていることが指摘されています。
  近つ飛鳥博物館所蔵品のなかでも大型品で、移動は困難を伴いますが、他館からの借用希望も多く、出張が多い当館の顔ともいえる展示品です。
 
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靫形埴輪のなかでも優品のひとつです。 描かれた直弧文。

展示品紹介No.3  鹿谷寺(ろくたんじ)石塔模型

  当館の代表的な模型の一つと言えるのが、地階吹き抜け部分で展示している鹿谷寺石塔模型です。実物の石塔は、当館の北東約3.2kmの南河内郡太子町、二上山の中腹にある国史跡鹿谷寺跡にあります。鹿谷寺は、二上山(にじょうざん)の火山活動により形成された凝灰岩の石切場を再利用した石窟寺院(せっくつじいん)で、凝灰岩層の中央部分を削り残して造り出されたと考えられています。なお、二上山周辺は凝灰岩の産地で、周辺で採掘された凝灰岩は、古墳時代後期を中心に、石棺材として使用されていました。当館に隣接する近つ飛鳥風土記の丘に残る一須賀古墳群でも、家形石棺として使用されている古墳が数基みられます。

  この石塔は、層塔とよばれる形式で、屋根(笠)の層数から十三重層塔と称されています。現状では最上部の相輪(そうりん)は失われていますが、模型では埋没した下部も加えて復原されています。付近から出土した土師器や須恵器、和同開珎(わどうかいちん)などから、奈良時代の造営と考えられています。塔身南面に当たる模型の地階ホール側には、実物と同じく仏舎利孔が穿たれ、石塔表面のノミによる加工痕跡も再現されています。地階からだけではなく、1階からも見学していただくと、8mを超える高さを実感できるのではないでしょうか。
 
石塔模型 解説パネル
そびえる鹿谷寺石塔模型。 石塔の製作の解説パネル。

展示品紹介No.2  前塚古墳出土「長持形石棺」

 本館展示室、中地階のぐるりとまわる半円形の回廊が終わり、面前に見えてくるボリューム満点の展示が「石棺」です。このうち手前から2番目に展示されているのが、大阪府指定有形文化財の大阪府高槻市岡本町にある前塚古墳出土の長持形石棺です。
 前塚古墳は、被葬者が継体天皇と考えられている高槻市今城塚古墳の北側に位置する帆立貝形墳です。出土した埴輪から、百舌鳥・古市古墳群に大型前方後円墳が本格的に築造された中期の5世紀前半頃に築造されたと考えられる古墳です。昭和63年(1988)の調査で、全長94m、後円部径69m、前方部長25mを測り、周囲には幅10~17mの周濠がめぐることがわかりました。

 明治時代の開墾中に石棺が出土し、以前は大阪府茨木高等学校にありました。現在、茨木高等学校には複製品が置かれています。石棺は、兵庫県高砂市周辺で採掘されたと考えられる竜山石製で長さ約2m、幅約0.6m、高さ約0.8mを測ります。形状は、蓋は蒲鉾状の印籠蓋(いんろうぶた)で、短辺中央に各1個の縄掛突起(なわかけとっき)をもつ長持形石棺です。現在は失われていますが、蓋石短辺の両端部分には三角形の文様が沈み彫りで刻まれていたことが知られています。両端の小口や側壁の石材は内外面とも丁寧に加工され、組み合わされています。
 長持形石棺は、古墳時代前期の4世紀代中頃に出現し、中期にかけて用いられたものです。近畿地方の大型の前方後円墳からみつかることが多く、当時の最上位の石棺「王者の石棺」とも呼ばれています。また、長持形石棺にも突起配置や数によって形の違いがあり、墳丘規模によって示される階層差を反映していると考えられています。
 
中地階石棺 前塚石棺1
左から2番目が前塚古墳出土石棺。 組み立てられた全体像。
 
短辺 内部
縄掛突起部分を含め欠落している短辺。 細部まで精巧な作りです。

展示品紹介No.1  蕃上山古墳出土「男子人物形埴輪」

 当館の中地階に降りた手前側には、たくさんの埴輪が展示されています。この「埴輪の世界」のコーナーには、向かって左から右にかけて、だいたい出現した順に各種の形象埴輪を展示しています。その中でも、最も右側にある、つまり最も新しく出現した形象埴輪が人物埴輪です。その人物埴輪として展示しているのが、青山2号墳の人物埴輪と、蕃上山古墳の巫女形埴輪、弓持ち人物形埴輪、そしてこの「男子人物形埴輪」です。

 蕃上山古墳は、古市古墳群に存在した墳丘長53mの帆立貝形墳で、5世紀中頃の築造と考えられています。周溝からは、円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・甲冑形・人物埴輪などの埴輪が出土しています。このうち、当館の常設展示には、人物埴輪以外に、家形・蓋形・甲冑形埴輪があります。なお、人物埴輪としては古い例です。

 この男子人物形埴輪は、襷をかけた男子の姿を表しており、神に仕える男覡(おかんなぎ)との説もあります。鼻筋が通る端整な顔立ちです。上衣の合わせ目は、埴輪からみて左側にあり、現在の男性とは逆です。両手とも手首より先は残存しませんが、左手を前方に掲げており、何かを持っていたのでしょうか。たくさんの埴輪の中に埋もれてしまいそうですが、お時間があれば一つの埴輪をじっくりみるのも良いのではないでしょうか。
 
蕃上山古墳男子人物埴輪1 蕃上山古墳男子人物埴輪2
端正な顔立ちの男子。 後ろを見ると襷がけがはっきりと。