展示品紹介

展示品紹介No.7 長屋王邸跡から出土した木簡【複製品】

  展示室1階奥には「E 文字の時代」として、墨書土器や木簡、文房具などを展示したコーナーがあります。その中の木簡を取り上げます。

  木簡は木の札に文字を書いたものを言います。日本における木簡の出現は7世紀の前半のことですが、大量に使われるようになるのは7世紀後半以降で、飛鳥・藤原京・平城京などの都の跡で特に多く出土しています。律令制の成立に伴って、さまざまな行政処理が必要になったことによります。そして紙がなかったから木を用いたというのではなく、日常的なメモや付札には木簡を、正式な書類は紙にというように、木と紙の使い分けをしていたようです。

  「住吉郡交易進贄塩染阿遅二百廿口之中〈大阿遅廿口/小阿遅二百口〉」と書かれた長さ21.9㌢の木簡は、平城京左京三条二坊にあった長屋王の邸宅跡から出土したものです。長屋王は左大臣に昇りながら、天平元(729)年に謀反の疑いをかけられて自殺した悲劇の宰相です。王邸からは3万5千点余もの木簡がまとまって見つかりました。時期は平城京遷都直後の710年代です。摂津国住吉郡が交易(購入)して塩漬けの阿遅(アジ、鯵のこと)を220疋(内訳は大が20疋、小が200疋)を入手して、王邸に進上すると言っています。木簡の上下両端の左右にある切り込みは、そこに紐をかけて鯵を入れた荷物にくくりつけるためのものです。

  表に「百済郡南里車長百済部若末呂車三転米十二斛〈上二石/中十石〉」、裏に「元年十月十三日〈田辺広国/八木造意弥万呂〉」と書かれた木簡(長さ27.1㌢)も、長屋王邸跡から出土しました。摂津国百済郡南里の車長(くるまのおさ)である百済部若末呂(くだらべのわかまろ)が、車3両に米を12斛(こく)載せて王邸まで運ぶことを、元年10月13日に田辺広国と八木造意弥万呂(やぎのみやつこおみまろ)が報告している木簡です。米の単位の斛は、1斗の10倍、1升の100倍で、80㍑ほどにあたります。内訳では石という字で書いています。当時既に車を使ってモノを運んでいたこと、それを統括する車の長がいたことを示す興味深い木簡です。これには切り込みはありません。米俵は大量にあったので(当時の1俵は5斗入りなので、恐らく24俵)、それに結びつけたのではなく、若末呂が携えて行ったのでしょう。元年は霊亀元(715)年のこととみられます。
 
文字の時代 木棺展示
1階展示室の最奥部「文字の時代」。 展示されている木簡複製品。
 
百済郡
「住吉郡・・・」木簡。 「百済郡・・・」木簡(右:表、左:裏)

展示品紹介No.6 一須賀古墳群WA1号墳 金銅製沓(くつ)復原模造品

  常設展示室に入ってすぐ左手の展示ケースには、一須賀古墳群からみつかった資料を展示しています。その中でも金色に光り目を引くのが、金銅製沓復原模造品です。復原模造品のもとになった金銅製沓は、石棺内でばらばらになって発見されました。その表面には、幅2㎝前後の二重の六角形の亀甲文(きっこうもん)が多量に打ち出され、二重の枠内には20点以上の列点文がタガネなどで打ち出されています。さらに、銅線をねじった先に、径約9mmの円形の歩揺(ほよう)を綴じつけ、それを表面・底面にまで多量に飾っています。

一須賀古墳群WA1号墳は、直径30mの円墳で、古墳群中最大規模の全長15mの両袖式の横穴式石室を埋葬施設とし、奥壁に接して組合式家形石棺がみつかりました。その立地が、やや独立した尾根の頂上部である点も、古墳群の中で特異な点です。出土遺物には、ここで紹介している金銅製沓以外に、金銅装単龍環頭大刀柄頭(こんどうそうたんりゅうかんとうたちつかがしら)片や金銅製冠(こんどうせいかんむり)片などがあり、盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が確認されています。これらから、この古墳の被葬者は有力首長と推定できます。
  当館の保管資料の中では、貸し出されることが多い資料ですので、しばしば片方になっていますが、じっくりとご覧いただければと思います。
 
 
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沓の表面には六角形の亀甲文が打ち出され、全体に歩揺が付けられています。

展示品紹介No.5 応神陵古墳外堤 笠形木製品

  当館の地階、「現代科学と考古学」のコーナーでは、科学的な手法による分析や遺跡の探査などを解説しています。今回取り上げる笠形木製品は、同コーナーの年輪年代測定を紹介する資料として展示されています。

  古墳の墳丘や段築の平坦面には、埴輪や埴輪を立てた痕跡とともに、これらとは違う形の柱穴が見つかることがあります。また、周濠など水が多く存在する場所では、有機物が残りやすく、木製の柱の上に乗っていたと考えられる笠形木製品や鳥形木製品などの出土が知られています。これらの木製品は、木製樹物(たてもの)や木製埴輪と呼ばれ、墳丘上の柱穴に立て並べられたと考えられています。当館の笠形木製品は全体の約半分が残っており、最大幅は74.0cm、高さは21.5cmを測るコウヤマキの巨木を用いたものです。コウヤマキは、耐久性が高い貴重な材であるとともに、長大な割竹形木棺に用いられるなど古墳造営とも密接にかかわる重要な材料です。この資料は、笠形木製品の中できわめて大きなもので、応神天皇陵古墳という巨大な大型前方後円墳に相応しい立派な製品です。

  日本のように、季節による寒暖や降水量などの変化が大きい地域では、1年の内で樹木の生長度合いに差ができるため、毎年年輪が形成されます。年輪はもっとも樹皮に近い部分が新しく、樹木の中心になるほど古くなります。この年輪間の幅を測定してその変化のパターンを記録します。これを伐採年が確実に分かっている樹木の年輪と、過去の木材の年輪間の測定値の組合せが重なる部分をつないでいき、年代の基準となるパターンを作成して樹木の伐採年を調べるのが「年輪年代測定法」です。年輪年代法では、ずばり伐採の実年代が1年単位で測定できる可能性があります。しかし、現状では測定できる樹種がスギ・ヒノキ・コウヤマキの3種類であることや、樹皮が残っていない場合は正確な伐採年代が分からないなど、いくつかの問題点もあります。

  今回紹介した笠形木製品は、確認できる最も外側の年輪はA.D.302年のものです。応神陵古墳の築造は、埴輪の編年から5世紀前半と考えられており、笠形木製品と古墳の築造年代には大きな差がみられます。これは、木製品の製作の際に木材の中心部を主に使用したためと考えられ、実際の製作年代はA.D.302年よりも後と考えられます。当館ではやや地味に展示されていますが、笠形木製品は考古学的、科学的な分析いずれにおいても重要な資料だということがお分かりいただけるでしょう。ぜひ一度じっくりとご覧ください。
 
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笠の形のかなりの重量物です。 裏側は四角い柱に通した穴の形が見えます。

展示品紹介No.4 萱振1号墳 靫形(ゆぎがた)埴輪

  当館常設展示では中地階の前方後円形をした展示スペースを囲むように埴輪が並んでいます。その第2ゾーンの形象埴輪群のなかで、とびぬけて大きい器財埴輪のひとつが、平成元年(1989)に大阪府指定文化財に指定された萱振1号墳の靫形埴輪です。「靫」とは矢を先端が上向きに収納し背負う道具で、矢を先端が下向きに収納して腰に下げて使う道具を「胡簶(ころく)」と言います。胡簶は、日本列島では、古墳時代中期に朝鮮半島の影響を受けて定着しました。一方、靫は伝統的な矢の収納具と考えらえれ、主要な武装として用いられてきました。

  萱振1号墳の靫形埴輪は、箱形の矢筒部分と背板と言われる筒を安定させ背中を保護する部分からできています。矢筒部分・背板部分ともに直弧文が施されていますが、上部の残りは悪く、鏃(やじり)部分の表現は失われています。この資料は器財埴輪のなかでも比較的古い段階の資料で、靫形埴輪のなかで最大サイズを誇るとともに、直弧文に原初的な表現が見られることから最も古い例として知られています。この段階の器財埴輪は、ほとんどが靫や盾、甲冑などの武器や武具であることから防禦(ぼうぎょ)・防衛などの意図のものに立てられたと考えられます。伝統的な文様「直弧文」も呪術的な意味を持つと考えられることから、古墳を守護する意図が込められたのでしょう。

  萱振1号墳からは、このほかにも鰭付円筒埴輪が出土しています。こうした鰭付円筒埴輪は、この時期に出現する共通性の高い器財埴輪を伴うものが多いことが知られています。そして、前期後半における最大規模の前方後円墳が築造された大和北部の佐紀・盾列古墳群を中心として、近畿地方各地を代表する古墳に用いられていることが指摘されています。
  近つ飛鳥博物館所蔵品のなかでも大型品で、移動は困難を伴いますが、他館からの借用希望も多く、出張が多い当館の顔ともいえる展示品です。
 
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靫形埴輪のなかでも優品のひとつです。 描かれた直弧文。

展示品紹介No.3  鹿谷寺(ろくたんじ)石塔模型

  当館の代表的な模型の一つと言えるのが、地階吹き抜け部分で展示している鹿谷寺石塔模型です。実物の石塔は、当館の北東約3.2kmの南河内郡太子町、二上山の中腹にある国史跡鹿谷寺跡にあります。鹿谷寺は、二上山(にじょうざん)の火山活動により形成された凝灰岩の石切場を再利用した石窟寺院(せっくつじいん)で、凝灰岩層の中央部分を削り残して造り出されたと考えられています。なお、二上山周辺は凝灰岩の産地で、周辺で採掘された凝灰岩は、古墳時代後期を中心に、石棺材として使用されていました。当館に隣接する近つ飛鳥風土記の丘に残る一須賀古墳群でも、家形石棺として使用されている古墳が数基みられます。

  この石塔は、層塔とよばれる形式で、屋根(笠)の層数から十三重層塔と称されています。現状では最上部の相輪(そうりん)は失われていますが、模型では埋没した下部も加えて復原されています。付近から出土した土師器や須恵器、和同開珎(わどうかいちん)などから、奈良時代の造営と考えられています。塔身南面に当たる模型の地階ホール側には、実物と同じく仏舎利孔が穿たれ、石塔表面のノミによる加工痕跡も再現されています。地階からだけではなく、1階からも見学していただくと、8mを超える高さを実感できるのではないでしょうか。
 
石塔模型 解説パネル
そびえる鹿谷寺石塔模型。 石塔の製作の解説パネル。

展示品紹介No.2  前塚古墳出土「長持形石棺」

 本館展示室、中地階のぐるりとまわる半円形の回廊が終わり、面前に見えてくるボリューム満点の展示が「石棺」です。このうち手前から2番目に展示されているのが、大阪府指定有形文化財の大阪府高槻市岡本町にある前塚古墳出土の長持形石棺です。
 前塚古墳は、被葬者が継体天皇と考えられている高槻市今城塚古墳の北側に位置する帆立貝形墳です。出土した埴輪から、百舌鳥・古市古墳群に大型前方後円墳が本格的に築造された中期の5世紀前半頃に築造されたと考えられる古墳です。昭和63年(1988)の調査で、全長94m、後円部径69m、前方部長25mを測り、周囲には幅10~17mの周濠がめぐることがわかりました。

 明治時代の開墾中に石棺が出土し、以前は大阪府茨木高等学校にありました。現在、茨木高等学校には複製品が置かれています。石棺は、兵庫県高砂市周辺で採掘されたと考えられる竜山石製で長さ約2m、幅約0.6m、高さ約0.8mを測ります。形状は、蓋は蒲鉾状の印籠蓋(いんろうぶた)で、短辺中央に各1個の縄掛突起(なわかけとっき)をもつ長持形石棺です。現在は失われていますが、蓋石短辺の両端部分には三角形の文様が沈み彫りで刻まれていたことが知られています。両端の小口や側壁の石材は内外面とも丁寧に加工され、組み合わされています。
 長持形石棺は、古墳時代前期の4世紀代中頃に出現し、中期にかけて用いられたものです。近畿地方の大型の前方後円墳からみつかることが多く、当時の最上位の石棺「王者の石棺」とも呼ばれています。また、長持形石棺にも突起配置や数によって形の違いがあり、墳丘規模によって示される階層差を反映していると考えられています。
 
中地階石棺 前塚石棺1
左から2番目が前塚古墳出土石棺。 組み立てられた全体像。
 
内部
縄掛突起部分を含め欠落している短辺。 細部まで精巧な作りです。

展示品紹介No.1  蕃上山古墳出土「男子人物形埴輪」

 当館の中地階に降りた手前側には、たくさんの埴輪が展示されています。この「埴輪の世界」のコーナーには、向かって左から右にかけて、だいたい出現した順に各種の形象埴輪を展示しています。その中でも、最も右側にある、つまり最も新しく出現した形象埴輪が人物埴輪です。その人物埴輪として展示しているのが、青山2号墳の人物埴輪と、蕃上山古墳の巫女形埴輪、弓持ち人物形埴輪、そしてこの「男子人物形埴輪」です。

 蕃上山古墳は、古市古墳群に存在した墳丘長53mの帆立貝形墳で、5世紀中頃の築造と考えられています。周溝からは、円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・甲冑形・人物埴輪などの埴輪が出土しています。このうち、当館の常設展示には、人物埴輪以外に、家形・蓋形・甲冑形埴輪があります。なお、人物埴輪としては古い例です。

 この男子人物形埴輪は、襷をかけた男子の姿を表しており、神に仕える男覡(おかんなぎ)との説もあります。鼻筋が通る端整な顔立ちです。上衣の合わせ目は、埴輪からみて左側にあり、現在の男性とは逆です。両手とも手首より先は残存しませんが、左手を前方に掲げており、何かを持っていたのでしょうか。たくさんの埴輪の中に埋もれてしまいそうですが、お時間があれば一つの埴輪をじっくりみるのも良いのではないでしょうか。
 
蕃上山古墳男子人物埴輪1 蕃上山古墳男子人物埴輪2
端正な顔立ちの男子。 後ろを見ると襷がけがはっきりと。