展示品紹介

展示品紹介No.18 近つ飛鳥博物館常設展示室の子持勾玉

  「子持勾玉」は、古墳時代の文物のなかでもっとも特殊な遺物のひとつです。子持勾玉は、古墳時代中期後半から後期にかけて広く用いられ、全国で450例を超える出土が知られています。しかし、その形態的意味、使用法などの定見は、資料は蓄積されてきたにもかかわらず明らかにできていないもののひとつです。

  大阪府立近つ飛鳥博物館には、常設展示室に府内の5点の子持勾玉が展示されています。「古墳造営のムラ」の土師の里遺跡3点、「開発と技術」の池島・福万寺遺跡の2点の5点の子持勾玉が展示されています。いずれの資料も集落遺跡の包含層からの出土で詳細な時期については明らかではありません。また、表現や形態もそれぞれ異なっています。

  子持勾玉は、時期の明らかな資料の検討から、当初から通常の勾玉とはやや容姿を異にした形状にはじまったと考えられます。基本的には、時期を追って粗雑化していくようです。子持勾玉の特徴は、取り付けられた「子」勾玉にあります。「勾玉」というモチーフの使用については、玉杖柄頭飾、刳抜式石棺の枕や石枕の立花などへの装飾的配置や大阪府紫金山古墳の勾玉文鏡など興味深い事例が存在します。もしかすると、勾玉の持つ「呪力」を数量的に増幅するなどの意図を持っていたのではという意見もあります。みなさんも常設展示室でじっくりと見ていただいて、ぜひ考えてみてください。
 
049 050
土師の里遺跡の子持勾玉 池島・福万寺遺跡の子持勾玉

展示品紹介No.17 馬の復元模型と古代の馬

  常設展示室の地階、黄泉の塔の真下にあたる場所に、今回紹介する古代の馬の展示があります。展示では、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡から出土した馬の骨格と、その骨格をもとに復元した骨格模型、骨格模型に肉付けした馬の復元模型が並んでいます。

  考古学的には、日本列島で馬が本格的に飼育され、普及するのは古墳時代中期以降と考えられます。古墳時代「河内湖」の縁辺に位置する遺跡からは、5世紀頃の馬の骨や歯、飼育に必要な塩をつくる製塩土器、鞭(むち)やブラシの柄、鞍(くら)、鐙(あぶみ)が出土しています。これらのことから、馬の飼育・調教をおこなう「牧」があったと考えられています。日本書紀にも、河内馬飼部(かわちのうまかいべ)の記述がみられます。これらの遺跡からは、朝鮮半島に由来する土器などが多く出土していることから馬の飼育など新たな技術には渡来人が深く関与していたと考えられてます。

  展示されている骨格は、上顎から上部を欠いていますが、古墳時代の馬の姿が分かる貴重なものです。年齢は5~6歳、体高(肩の上からつま先までの長さ)127cm程度と推定されていますが、性別は分かりません。現在のサラブレットでは体高が150cm程度であることを考えると非常に小柄な馬でであったようです。長辺約200cm、短辺約150cm、深さ約30cmの土坑に横たわるようにして埋葬されており、死後に丁寧に扱われたことが分かります。

  発掘された骨格は、宮崎県に現存する御崎馬(みさきうま)に最も近いため、御崎馬を参考に全体像の復元がなされました。展示されている馬の場合、顎から推定できる頭部の大きさは、現存する馬よりも大きく、体の割に大きな頭をしていたようです。この頭部の大きさが、個体差か当時の品種による違いかは分かりませんが、本資料が古墳時代の馬の姿を知るうえで貴重なものであることには違いありません。

  なお、復元模型には「遥馬(はるま)」という愛称がつけられています。ご来館の際には、是非「遥馬」と背比べをして、古墳時代の馬の大きさを実感してみてください。
 
048
左から、出土資料(ケース内)・復元模型・骨格模型です。

展示品紹介No.16 アリ山古墳副葬庫埋納時再現模型

  今回紹介する展示物は、中地階正面、常設展示第2ゾーンの「王と民衆」コーナーにある模型です。アリ山古墳は、古市古墳群最大規模の誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の陪冢(ばいちょう)とされる5世紀前半の古墳です。一辺45m、高さ4.5mの方墳で、墳頂部で中央・南・北の3つの施設がみつかっています。今回紹介する模型は、これらの施設のうち、最も残りがよく、大量の鉄製品が出土した北施設を復元したものです。

  この施設には、多数の鉄製品が納められていました。東西3.02m、南北1.38mの長方形の土壙に木製の容器が設置され、その中に武器・農工具が上・中・下の3つの層に分かれて置かれていました。人の遺体が埋葬された痕跡はうかがえなかったことから、副葬品埋納用の施設と考えられています。

  上層は、鉄鏃1542本からなります。32の群に分かれてみつかっていることから、約50本の矢を一束にしておかれていたようです。鏃の形は、細長いものと三角形状のものの2種類に分けられます。このうち三角形状のものには、先端側と下方両側の計3箇所に孔がみられます。その目的はよくわかりませんが、矢が飛ぶときに音を発するようにするためという考えがあります。中層では、槍8本、矛1本、刀77本、剣8本からなる武器が置かれていました。なお、刀と剣は特に区別されずに置かれていました。下層では、斧、蕨手刀子、鑿、錐、ヤリガンナ、鋸、鎌、鍬など929点の鉄製農工具が、10群に分けておかれていました。

  模型は、向かって左側は矢の一部の部分的な復元に留めて、下の農工具まで観察できるように工夫されています。これら多量の鉄製品は、発見時には木製の柄の部分などはほとんど朽ち果てて残っていませんでした。こうした朽ち果てた細部までリアルに復元した模型は迫力があります。
 
046 047
写真手前側は、下層までみえるようになっています。 三角形状の鉄鏃には、3か所に孔が開いています。

展示品紹介No.15 津堂城山古墳 水鳥形埴輪(複製品)

  当館で1階から中地階へ降りたすぐのところに展示しているのが津堂城山古墳出土水鳥形埴輪(複製品)です。津堂城山古墳は、古市古墳群で最初に築かれた大型前方後円墳で、墳丘長は210mを測ります。水鳥形埴輪は、墳丘東側の古墳周濠に築かれた、一辺17mの島状遺構南側傾斜面からみつかりました。2体は1mを越える大きなもので、残る1体は一回り小さいものです。大形の2体はほぼ同形同大で、いずれも基部となる円筒に鰐がめぐり、その上に踏ん張るように立っています。ちょうど脚がのる部分の鰐は、水かきを意識した形状で、非常に写実的です。また、立体的な翼や嘴の鼻孔などにも注目できます。

  これらの水鳥形埴輪は、全国の出土例の中でも最古かつ最大のもので、2006年6月には国の重要文化財へ指定されました。ちなみに、その実物は藤井寺市の「アイセルシュラホール」で展示されています。
 
045
島状施設や濠を復元した3体の展示状況

展示品紹介No.14 一須賀O-5号墳出土状態再現

  当館の中地階「黄泉の国」のコーナーにあるのが、一須賀O-5号墳出土状態再現です。横穴式石室は、遺体を安置する空間である「玄室」と、そこに至る通路の「羨道」からなり、この再現展示は、玄室部分の床面付近を中心としています。なお、この石室は、玄室長3.45m、幅2.0m、羨道長3.0m、幅1.15mの大きさで、この古墳の築造時期は、6世紀後半と考えられています。

  この古墳には、少なくとも2人が葬られていました。そのうち1人は、板状の石材がまとまる部分に葬られていました。これらの石材は、組合せ式の家形石棺を構成しています。もう1人は石棺の横に置かれた木の棺に葬られていました。木の棺そのものは残っていませんでしたが、板材をつなぎ合わせていた釘などの位置から安置されていた場所が推定できます。さらに石棺の手前(羨道側)にみられる釘から、ここにも木の棺が安置されていた可能性が考えられます。

  O-5号墳からは、須恵器や耳飾り、鉄の刀などがみつかりました。このほかに、展示品紹介No.12で紹介した竈などの炊飯具のミニチュアが出土しています。このミニチュア炊飯具の出土によって、渡来人やその子孫がO-5号墳に葬られていたと想定することもできます。
 
041 042
ガラスにのって直接真上から見学できます。 手前側。石室の袖部分も表現されています。
043 044
石棺の奥の土器。展示品No.12で紹介したミニチュア炊飯具形土器の甑があります。 木棺の奥にも土器がまとまっています。こちらにはミニチュア炊飯具の竈があります。

展示品紹介No.13 役人たちの墓誌3点(複製品)

  展示室1階奥のF「古墳の終りと墓」というコーナーのうち、F1「文字と品物」には3点の墓誌(複製品)が展示されています。墓誌とは被葬者の名前や出自、経歴、没年、埋葬年などを銅板や石板などに刻み、墓に納めたものです。官人を中心に、7世紀後半から8世紀までの16例が現存しています。中には火葬骨を入れる骨蔵器に記したものもあり、墓誌を納める風習が火葬の普及と連動することがわかります。

  展示されている3点は、①威奈大村(いなのおおむら)の金銅製球形の骨蔵器(国宝)、②高屋枚人(たかやのひらひと)の石製墓誌(重要文化財)、そして③船王後(ふねのおうご)の銅製墓誌(国宝)です。

  このうち①は、江戸時代に香芝市穴虫から出土したものです。威奈大村は持統朝から朝廷に仕え、小納言・侍従・左少弁・越後城司(越後守のこと)などを歴任して、慶雲4年(707)4月24日に46歳で越後で病死した後、同年11月21日に大倭(やまと)国葛木下(かずらきのしも)郡山君(やまきみ)里の狛井山崗(こまいやまのおか)に葬られました。

  ②は、江戸時代に太子町太子で見つかりました。高屋枚人は正六位上という位階を持つ常陸(ひたち)国の大目(だいさかん)(国司の第4等官)で、宝亀7年(776)11月28日に埋葬されました。書かれた内容はこれだけです。なおこれには蓋(ふた)石も付いています。

  ③はやはり江戸時代に、柏原市国分市場の松岳(まつおか)山から出土したと伝えられます。船王後は船氏の中祖の王智仁の子の那沛故の子として敏達天皇の時に生まれ、推古・舒明朝に朝廷に仕え大仁の位を賜った後、辛丑年(=舒明13年)(641)12月3日に亡くなり、戊辰年(=天智8年)(668)12月に松岳山の上に葬られました。埋葬時期が遅いのは、妻の安理故能刀自(ありこのとじ)の死後に改葬・合葬されたためです。祖父の王智仁は『日本書紀』の欽明・敏達紀に見える、船氏の祖の王辰爾(おうしんに)のことで、船氏は河内にいた百済系の渡来氏族です。

  3点はいずれもここからそれ程遠くない所で見つかったものですが、その他にも太子町春日からは紀𠮷継(きのよしつぐ)の墓誌(塼製)が出土しています。また奈良県五條市東阿田町で見つかった山代真作(やましろのまさか)の金銅製墓誌によると、彼が住んでいたのは河内国石川郡山代郷でしたが、それは河南町山城にあたるとみられます。
 
037 038
こちらの展示です。 ① 威奈大村の金銅製球形の骨蔵器(国宝)
039 040
② 高屋枚人の石製墓誌(重要文化財) ③ 船王後の銅製墓誌(国宝)

展示品紹介No.12 一須賀古墳群出土 ミニチュア炊飯具形土器

  今回は一須賀古墳群出土のミニチュア炊飯具形土器を紹介します。展示室に入ってすぐ左手のケースには一須賀古墳群の資料が展示してあります。その中で、なんともかわいらしい土器がありますが、これは、竈(かまど)・鍋(なべ)・甑(こしき)といった炊飯(すいはん)具(ぐ)のミニチュアです。それぞれ、別々に作られていて、一番下にあるのがカマドです。竈には庇(ひさし)が表現されているものもあります。真ん中は鍋、そして一番上にあるのが甑です。甑の底部には孔があいて、鍋の上に据えて使う、いわゆる蒸し器です。

  6世紀を中心に古墳に副葬品されたミニチュア炊飯具形土器ですが、そのもととなる実用品は、これより古く、5世紀に渡来人によって日本列島にもたらされたと考えられます。もともと、日本にはなかった土器で、須恵器生産や馬匹(ばひつ)生産など、様々な新しい技術とともにやってきた渡来人たちの道具であったと考えられます。

  しかし、ミニチュアの炊飯具形土器は、朝鮮半島と日本列島を比較すると、日本での出土例の方が圧倒的に多く、特に河内や、大和、琵琶湖南西部の群集墳(ぐんしゅうふん)に特徴的に認められる副葬品です。一須賀古墳群でも20基ほどの古墳からみつかっています。その故地については、中国では、同じ形のものではありませんが、小型の炊飯具を副葬する風習があることから、中国系渡来人とする意見もあります。いずれにしても、こうしたミニチュアを古墳に副葬する風習はこれまでの日本にはなく、渡来人との関わりが考えられるものであり、一須賀古墳群の被葬者に渡来系の人々が含まれていたことを示すものといえます。

  実は展示室には、もう一か所、ミニチュア炊飯具形土器が展示されているのですが、どこでしょうか?
 
034 035
展示では様々な形のものが並んでいます。 分解する左から「竈(かまど)・甕(かめ)・甑(こしき)」。
036
甑の底もちゃんと作ってます!

展示品紹介No.11 安福寺石棺 複製品

  展示品紹介No2では前塚古墳出土長持形石棺を紹介しましたが、その手前側に展示しているのが、柏原市玉手町にある安福寺の境内に安置されている刳り抜き式割竹形(わりたけがた)石棺の複製品です。実物は1990(平成2)年には国の重要文化財に指定され、今でも安福寺境内で見ることができます。

  この石棺は、蓋と考えられていますが、当館の展示では身の方も推定復原しています。長さ256㎝、幅90㎝、高さ47㎝で、使われている石材は香川県鷲の山(わしのやま)産と推定されています。石棺の小口には縄掛け突起があったようですが、欠損しており痕跡だけ見ることができます。石棺の合せ口に近い外面には「直弧文(ちょっこもん)」という特殊な文様が線刻されています。近年、事例の増加や研究の進展により、この文様を直弧文とは別の文様とする意見が出されており、文様研究の上でも非常に重要な資料といえます。

  この石棺がそもそもどの古墳に埋め置かれていたのか、という点については、古くから近在する玉手山古墳群の3号墳とする伝承があります。3号墳は、墳丘長100mの前方後円墳で、2004(平成16)年には埋葬施設の発掘調査が行われました。残念ながら、埋葬施設は大規模な盗掘を受けており、蓋と考えられる安福寺境内の石棺と組み合わさる石棺の身は発見できませんでした。しかし、木棺を安置した際にみられる粘土棺床が認められなかったことなどからは、石棺を納めた竪穴式石槨であったと推定でき、安福寺境内の石棺が納められていた可能性も考えられます。
 
032 033
縄掛け突起も推定復原しています。 文様にはスポットライトを当てています。

展示品紹介No.10 下級役人の勤務評定木簡【複製品】

  展示室1階奥の「E文字の時代」に展示している木簡の中には、平城宮で働く下級役人の勤務評定に関わるものが2点あります。

  その1つ「去上従八位下村合氷守公麻呂〈年五十四/河内国志紀郡〉上日二百十船稲」と書かれた木簡は、長さが292㍉、厚みが30㍉もある大きなものです。上端の右半分が欠けていますが、そこに孔が横方向にあいているのがわかります。頭に書かれた「去上」は、去年の勤務評定の結果(考第)が上であったことを示します。当時の役人には、常勤の人(長上官)と非常勤の人(分番官)がおり、分番官は年に140日以上勤務すると、勤務態度が評価され(考課という)、上・中・下の考第がつけられました。そして数年間(8年以上から後に2年短縮)の成績を元に、位階が上がります。

  この木簡の主人公は、従八位下という位の村合氷守公麻呂(むらあいのひもりのきみまろ)です。彼は54歳で、河内国志紀郡に本籍を持っています。志紀郡は石川と大和川が合流する辺りの石川西部で、今の八尾市南部・柏原市西部から藤井寺市・羽曳野市にかけて広がっていました。最後の「上日二百十船稲」は、今年の上日(勤務日数)が210日であると、船稲(ふねのいね)という人が後から書き込んだ部分です。考課を受けるに十分な日数です。このデータを元に、今年度の成績がつけられたはずです。上端の孔は事務処理のために、紐を通して同種の木簡を綴じるのに使われました。

  もう1つ、「去上位子従八位上伯祢広地〈年卅二/河内国安宿郡〉」という木簡も同種のもので、長さが39.4㌢、厚みが31㍉とさらに大きいものです。やはり上の方に、孔が横方向に貫通しています。伯祢広地(はくねのひろち)の本籍の地は河内国安宿(あすかべ)郡です。安宿郡は大和川以南で石川以東、今の柏原市南部から羽曳野市にかけての辺りです。位階の上に書かれた位子は、彼が出仕するようになった理由にあたります。すなわち六位以下、八位以上の人の嫡子で、21歳以上になっても官途についていない者を試験して、大舎人(おおとねり)や兵衛、使部(しぶ)(諸官司の雑用をこなす下級役人)などに採用する規定に従って、役人になったのです。しかし先の木簡と違って、この年の勤務日数が書かれていません。何らかの事情で、彼は働けなくなったのでしょうか。

  これらの木簡は文官の人事を掌る式部省という役所跡の近くから出土しました。二人とも本籍は河内国に置いたまま平城宮で勤務していました。恐らく家族を故郷に残しての単身赴任だったのでしょう。家族と離れて都で成績を気にしながら勤務に追われても、なかなか出世できない下級役人たちの悲哀が感じられるようです。

  なお考課に関わる木簡は用が済むと、刀子(とうす)で表面を削って文字を消して再利用されます。そのため形のある木簡よりも削屑(けずりくず)の方が大量に出土しています。
   
028 029
正面の展示ケースです。 「去上従八位下村・・・」木簡です。
030 031
手前の役人の机の展示です。 「去上位子従八・・・・」木簡です。

展示品紹介No.9 堂山1号墳 三角板革綴衝角付冑・錣三角板革綴短甲【大阪府指定文化財】

  今日は、堂山1号墳から出土した甲冑を紹介します。堂山1号墳は大東市に所在する円墳です。直径25mと小規模ながら、甲冑や多くの鉄製品が副葬されており、地域の首長墓との評価がなされています。三角板革綴衝角付冑(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)、三角板革綴短甲(さんかくいたかわとじたんこう)、なんだか、長々と漢字がつづいて難しい名前ですね。でも、分解してみると、意外とわかりやすかったりします。

  まず、三角形に注目です。かぶとにもよろいにも三角形の鉄の板が組み合わさっています。そして小さい孔が並んでいますが、この孔に革紐を通して板をとめています。よく見ると、革紐が残っている部分もあります。基本的な枠組みを作って、その中に方形や三角形の地板をはめ込んで固定するもので、堂山1号墳の資料は三角形の地板を革紐で綴じている、というわけです。規格的なフレーム構造によって製作されており、「定型化した甲冑」と言われます。当時、鉄素材は国産ではなく、海外から持ち込んで製品が作られていました。甲冑は鉄製品のなかでも最高水準のものであり、規格性の高さからも、ヤマト王権のもとで一元的に生産、管理されていたと考えられます。

  いつもは中地階、ゾーン2に展示していますが、現在、特別展示室に出張中です。夏季企画展『堂山1号墳ーその被葬者像をさぐるー』では、ぐるり、360度から見ることができます。よろいの後ろ姿にも注目してみてください。また、かぶとの天頂部にも注目です。前面のとんがっている部分を衝角といいますが、天頂部にも注目してみてください。小さな孔が開いています。実は2か所あるのですが、1つは良く分かります。この孔は、三尾鉄(さんびてつ(みおがね))を紐づけた孔だと考えられます。三尾鉄は残っていませんが、三又になった鉄製品で、鳥の羽などを括り付けていたと考えられます。U字状になった板が錣(しころ)で、冑にとりついて頸部を保護するものです。周囲には小さな孔があいていていますが、革紐を孔にとおして縁取りしています。じっくり観察してみてください。
   
024 025
とがった右側の衝角部分が前です。 冑の下について頸を保護します。
026 027
後ろからみると大きさを実感できます。 特別展示室にじっくり見てみよう!

展示品紹介No.8 美園古墳 家形埴輪1【重要文化財】

  当館の展示品の中に、ひときわ秀麗なたたずまいの埴輪があります。「埴輪の世界」の独立ケースに納められた、大阪府八尾市美園古墳出土の家形埴輪です。美園古墳はいわゆる「埋没古墳」であり、1981年の発掘調査で確認された一辺約7mの小規模な方墳で、古墳時代前期の4世紀の古墳です。周溝から多数の壺形埴輪とともに、精巧な家形埴輪が2点出土しています。

  常設展示室に展示されている家形埴輪は入母屋造の屋根形式で高さ70㎝を測る大型品です。高床式と考えられる2段の構造で、屋根には鰭飾りがつけられている格式の高い建物を模したものです。四方の壁にはそれぞれ窓を設け、柱に線刻で盾を描いていることから、祭祀・儀礼の行われた建物を表現したという意見もあります。内部には、網代編みのベット状施設が表現されています。

  建物外壁をはじめ内部の細部まで丁寧に表現されていることから、古墳時代における建物の建築様式や内部構造を知る上で貴重な資料として知られています。美園古墳からは、このほかに切妻屋造の家形埴輪、壺形埴輪などが出土しています。1995年(平成7年)に家形埴輪2箇・壺形埴輪2箇が国指定重要文化財に指定されています。これらの埴輪についても、機会を見てご紹介したいと思います。近つ飛鳥博物館、そして大阪の秀逸な埴輪のひとつです。
   
美園家形1
優雅な姿の高床式の建物
盾表現 ベット状遺構
盾の表現 内部のベット状施設

展示品紹介No.7 長屋王邸跡から出土した木簡【複製品】

  展示室1階奥には「E 文字の時代」として、墨書土器や木簡、文房具などを展示したコーナーがあります。その中の木簡を取り上げます。

  木簡は木の札に文字を書いたものを言います。日本における木簡の出現は7世紀の前半のことですが、大量に使われるようになるのは7世紀後半以降で、飛鳥・藤原京・平城京などの都の跡で特に多く出土しています。律令制の成立に伴って、さまざまな行政処理が必要になったことによります。そして紙がなかったから木を用いたというのではなく、日常的なメモや付札には木簡を、正式な書類は紙にというように、木と紙の使い分けをしていたようです。

  「住吉郡交易進贄塩染阿遅二百廿口之中〈大阿遅廿口/小阿遅二百口〉」と書かれた長さ21.9㌢の木簡は、平城京左京三条二坊にあった長屋王の邸宅跡から出土したものです。長屋王は左大臣に昇りながら、天平元(729)年に謀反の疑いをかけられて自殺した悲劇の宰相です。王邸からは3万5千点余もの木簡がまとまって見つかりました。時期は平城京遷都直後の710年代です。摂津国住吉郡が交易(購入)して塩漬けの阿遅(アジ、鯵のこと)を220疋(内訳は大が20疋、小が200疋)を入手して、王邸に進上すると言っています。木簡の上下両端の左右にある切り込みは、そこに紐をかけて鯵を入れた荷物にくくりつけるためのものです。

  表に「百済郡南里車長百済部若末呂車三転米十二斛〈上二石/中十石〉」、裏に「元年十月十三日〈田辺広国/八木造意弥万呂〉」と書かれた木簡(長さ27.1㌢)も、長屋王邸跡から出土しました。摂津国百済郡南里の車長(くるまのおさ)である百済部若末呂(くだらべのわかまろ)が、車3両に米を12斛(こく)載せて王邸まで運ぶことを、元年10月13日に田辺広国と八木造意弥万呂(やぎのみやつこおみまろ)が報告している木簡です。米の単位の斛は、1斗の10倍、1升の100倍で、80㍑ほどにあたります。内訳では石という字で書いています。当時既に車を使ってモノを運んでいたこと、それを統括する車の長がいたことを示す興味深い木簡です。これには切り込みはありません。米俵は大量にあったので(当時の1俵は5斗入りなので、恐らく24俵)、それに結びつけたのではなく、若末呂が携えて行ったのでしょう。元年は霊亀元(715)年のこととみられます。
 
文字の時代 木棺展示
1階展示室の最奥部「文字の時代」。 展示されている木簡複製品。
 
住吉郡 百済郡
「住吉郡・・・」木簡。 「百済郡・・・」木簡(右:表、左:裏)

展示品紹介No.6 一須賀古墳群WA1号墳 金銅製沓(くつ)復原模造品

  常設展示室に入ってすぐ左手の展示ケースには、一須賀古墳群からみつかった資料を展示しています。その中でも金色に光り目を引くのが、金銅製沓復原模造品です。復原模造品のもとになった金銅製沓は、石棺内でばらばらになって発見されました。その表面には、幅2㎝前後の二重の六角形の亀甲文(きっこうもん)が多量に打ち出され、二重の枠内には20点以上の列点文がタガネなどで打ち出されています。さらに、銅線をねじった先に、径約9mmの円形の歩揺(ほよう)を綴じつけ、それを表面・底面にまで多量に飾っています。

一須賀古墳群WA1号墳は、直径30mの円墳で、古墳群中最大規模の全長15mの両袖式の横穴式石室を埋葬施設とし、奥壁に接して組合式家形石棺がみつかりました。その立地が、やや独立した尾根の頂上部である点も、古墳群の中で特異な点です。出土遺物には、ここで紹介している金銅製沓以外に、金銅装単龍環頭大刀柄頭(こんどうそうたんりゅうかんとうたちつかがしら)片や金銅製冠(こんどうせいかんむり)片などがあり、盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が確認されています。これらから、この古墳の被葬者は有力首長と推定できます。
  当館の保管資料の中では、貸し出されることが多い資料ですので、しばしば片方になっていますが、じっくりとご覧いただければと思います。
 
 
011
沓の表面には六角形の亀甲文が打ち出され、全体に歩揺が付けられています。

展示品紹介No.5 応神陵古墳外堤 笠形木製品

  当館の地階、「現代科学と考古学」のコーナーでは、科学的な手法による分析や遺跡の探査などを解説しています。今回取り上げる笠形木製品は、同コーナーの年輪年代測定を紹介する資料として展示されています。

  古墳の墳丘や段築の平坦面には、埴輪や埴輪を立てた痕跡とともに、これらとは違う形の柱穴が見つかることがあります。また、周濠など水が多く存在する場所では、有機物が残りやすく、木製の柱の上に乗っていたと考えられる笠形木製品や鳥形木製品などの出土が知られています。これらの木製品は、木製樹物(たてもの)や木製埴輪と呼ばれ、墳丘上の柱穴に立て並べられたと考えられています。当館の笠形木製品は全体の約半分が残っており、最大幅は74.0cm、高さは21.5cmを測るコウヤマキの巨木を用いたものです。コウヤマキは、耐久性が高い貴重な材であるとともに、長大な割竹形木棺に用いられるなど古墳造営とも密接にかかわる重要な材料です。この資料は、笠形木製品の中できわめて大きなもので、応神天皇陵古墳という巨大な大型前方後円墳に相応しい立派な製品です。

  日本のように、季節による寒暖や降水量などの変化が大きい地域では、1年の内で樹木の生長度合いに差ができるため、毎年年輪が形成されます。年輪はもっとも樹皮に近い部分が新しく、樹木の中心になるほど古くなります。この年輪間の幅を測定してその変化のパターンを記録します。これを伐採年が確実に分かっている樹木の年輪と、過去の木材の年輪間の測定値の組合せが重なる部分をつないでいき、年代の基準となるパターンを作成して樹木の伐採年を調べるのが「年輪年代測定法」です。年輪年代法では、ずばり伐採の実年代が1年単位で測定できる可能性があります。しかし、現状では測定できる樹種がスギ・ヒノキ・コウヤマキの3種類であることや、樹皮が残っていない場合は正確な伐採年代が分からないなど、いくつかの問題点もあります。

  今回紹介した笠形木製品は、確認できる最も外側の年輪はA.D.302年のものです。応神陵古墳の築造は、埴輪の編年から5世紀前半と考えられており、笠形木製品と古墳の築造年代には大きな差がみられます。これは、木製品の製作の際に木材の中心部を主に使用したためと考えられ、実際の製作年代はA.D.302年よりも後と考えられます。当館ではやや地味に展示されていますが、笠形木製品は考古学的、科学的な分析いずれにおいても重要な資料だということがお分かりいただけるでしょう。ぜひ一度じっくりとご覧ください。
 
011 012
笠の形のかなりの重量物です。 裏側は四角い柱に通した穴の形が見えます。

展示品紹介No.4 萱振1号墳 靫形(ゆぎがた)埴輪

  当館常設展示では中地階の前方後円形をした展示スペースを囲むように埴輪が並んでいます。その第2ゾーンの形象埴輪群のなかで、とびぬけて大きい器財埴輪のひとつが、平成元年(1989)に大阪府指定文化財に指定された萱振1号墳の靫形埴輪です。「靫」とは矢を先端が上向きに収納し背負う道具で、矢を先端が下向きに収納して腰に下げて使う道具を「胡簶(ころく)」と言います。胡簶は、日本列島では、古墳時代中期に朝鮮半島の影響を受けて定着しました。一方、靫は伝統的な矢の収納具と考えらえれ、主要な武装として用いられてきました。

  萱振1号墳の靫形埴輪は、箱形の矢筒部分と背板と言われる筒を安定させ背中を保護する部分からできています。矢筒部分・背板部分ともに直弧文が施されていますが、上部の残りは悪く、鏃(やじり)部分の表現は失われています。この資料は器財埴輪のなかでも比較的古い段階の資料で、靫形埴輪のなかで最大サイズを誇るとともに、直弧文に原初的な表現が見られることから最も古い例として知られています。この段階の器財埴輪は、ほとんどが靫や盾、甲冑などの武器や武具であることから防禦(ぼうぎょ)・防衛などの意図のものに立てられたと考えられます。伝統的な文様「直弧文」も呪術的な意味を持つと考えられることから、古墳を守護する意図が込められたのでしょう。

  萱振1号墳からは、このほかにも鰭付円筒埴輪が出土しています。こうした鰭付円筒埴輪は、この時期に出現する共通性の高い器財埴輪を伴うものが多いことが知られています。そして、前期後半における最大規模の前方後円墳が築造された大和北部の佐紀・盾列古墳群を中心として、近畿地方各地を代表する古墳に用いられていることが指摘されています。
  近つ飛鳥博物館所蔵品のなかでも大型品で、移動は困難を伴いますが、他館からの借用希望も多く、出張が多い当館の顔ともいえる展示品です。
 
009 010
靫形埴輪のなかでも優品のひとつです。 描かれた直弧文。

展示品紹介No.3  鹿谷寺(ろくたんじ)石塔模型

  当館の代表的な模型の一つと言えるのが、地階吹き抜け部分で展示している鹿谷寺石塔模型です。実物の石塔は、当館の北東約3.2kmの南河内郡太子町、二上山の中腹にある国史跡鹿谷寺跡にあります。鹿谷寺は、二上山(にじょうざん)の火山活動により形成された凝灰岩の石切場を再利用した石窟寺院(せっくつじいん)で、凝灰岩層の中央部分を削り残して造り出されたと考えられています。なお、二上山周辺は凝灰岩の産地で、周辺で採掘された凝灰岩は、古墳時代後期を中心に、石棺材として使用されていました。当館に隣接する近つ飛鳥風土記の丘に残る一須賀古墳群でも、家形石棺として使用されている古墳が数基みられます。

  この石塔は、層塔とよばれる形式で、屋根(笠)の層数から十三重層塔と称されています。現状では最上部の相輪(そうりん)は失われていますが、模型では埋没した下部も加えて復原されています。付近から出土した土師器や須恵器、和同開珎(わどうかいちん)などから、奈良時代の造営と考えられています。塔身南面に当たる模型の地階ホール側には、実物と同じく仏舎利孔が穿たれ、石塔表面のノミによる加工痕跡も再現されています。地階からだけではなく、1階からも見学していただくと、8mを超える高さを実感できるのではないでしょうか。
 
石塔模型 解説パネル
そびえる鹿谷寺石塔模型。 石塔の製作の解説パネル。

展示品紹介No.2  前塚古墳出土「長持形石棺」

 本館展示室、中地階のぐるりとまわる半円形の回廊が終わり、面前に見えてくるボリューム満点の展示が「石棺」です。このうち手前から2番目に展示されているのが、大阪府指定有形文化財の大阪府高槻市岡本町にある前塚古墳出土の長持形石棺です。
 前塚古墳は、被葬者が継体天皇と考えられている高槻市今城塚古墳の北側に位置する帆立貝形墳です。出土した埴輪から、百舌鳥・古市古墳群に大型前方後円墳が本格的に築造された中期の5世紀前半頃に築造されたと考えられる古墳です。昭和63年(1988)の調査で、全長94m、後円部径69m、前方部長25mを測り、周囲には幅10~17mの周濠がめぐることがわかりました。

 明治時代の開墾中に石棺が出土し、以前は大阪府茨木高等学校にありました。現在、茨木高等学校には複製品が置かれています。石棺は、兵庫県高砂市周辺で採掘されたと考えられる竜山石製で長さ約2m、幅約0.6m、高さ約0.8mを測ります。形状は、蓋は蒲鉾状の印籠蓋(いんろうぶた)で、短辺中央に各1個の縄掛突起(なわかけとっき)をもつ長持形石棺です。現在は失われていますが、蓋石短辺の両端部分には三角形の文様が沈み彫りで刻まれていたことが知られています。両端の小口や側壁の石材は内外面とも丁寧に加工され、組み合わされています。
 長持形石棺は、古墳時代前期の4世紀代中頃に出現し、中期にかけて用いられたものです。近畿地方の大型の前方後円墳からみつかることが多く、当時の最上位の石棺「王者の石棺」とも呼ばれています。また、長持形石棺にも突起配置や数によって形の違いがあり、墳丘規模によって示される階層差を反映していると考えられています。
 
中地階石棺 前塚石棺1
左から2番目が前塚古墳出土石棺。 組み立てられた全体像。
 
短辺 内部
縄掛突起部分を含め欠落している短辺。 細部まで精巧な作りです。

展示品紹介No.1  蕃上山古墳出土「男子人物形埴輪」

 当館の中地階に降りた手前側には、たくさんの埴輪が展示されています。この「埴輪の世界」のコーナーには、向かって左から右にかけて、だいたい出現した順に各種の形象埴輪を展示しています。その中でも、最も右側にある、つまり最も新しく出現した形象埴輪が人物埴輪です。その人物埴輪として展示しているのが、青山2号墳の人物埴輪と、蕃上山古墳の巫女形埴輪、弓持ち人物形埴輪、そしてこの「男子人物形埴輪」です。

 蕃上山古墳は、古市古墳群に存在した墳丘長53mの帆立貝形墳で、5世紀中頃の築造と考えられています。周溝からは、円筒・朝顔形・家形・蓋形・盾形・甲冑形・人物埴輪などの埴輪が出土しています。このうち、当館の常設展示には、人物埴輪以外に、家形・蓋形・甲冑形埴輪があります。なお、人物埴輪としては古い例です。

 この男子人物形埴輪は、襷をかけた男子の姿を表しており、神に仕える男覡(おかんなぎ)との説もあります。鼻筋が通る端整な顔立ちです。上衣の合わせ目は、埴輪からみて左側にあり、現在の男性とは逆です。両手とも手首より先は残存しませんが、左手を前方に掲げており、何かを持っていたのでしょうか。たくさんの埴輪の中に埋もれてしまいそうですが、お時間があれば一つの埴輪をじっくりみるのも良いのではないでしょうか。
 
蕃上山古墳男子人物埴輪1 蕃上山古墳男子人物埴輪2
端正な顔立ちの男子。 後ろを見ると襷がけがはっきりと。