こども考古学者の部屋

古墳時代のくらし

古墳(こふん)時代は、弥生(やよい)時代にはじまった米つくりのための田などを鉄の農具(のうぐ)を使(つか)ってひろげていきました。各地の豪族(ごうぞく)は住居(じゅうきょ)や倉庫(そうこ)を建(た)て、そのまわりを古墳と同じように堀で囲みました。

≪家の周囲、配置≫

-ムラ-
竪穴住居 群馬県(ぐんまけん)にある黒井峯遺跡(くろいみねいせき)は、古墳時代(こふんじだい)にとつぜん噴火(ふんか)した火山(かざん)の灰(はい)や軽石(かるいし)で埋(う)まってしまったムラです。
そのため、当時(とうじ)の生活(せいかつ)のようすがよくわかります。
軽石の下からは、地面(じめん)に穴(あな)を掘(ほ)って、そのうえに屋根(やね)をかける竪穴(たてあな)住居やそのまま柱(はしら)を立て屋根をかけた平地式(へいちしき)住居のまわりに垣根(かきね)をまわしていました。
建物のまわりには庭(にわ)や畑(はたけ)、そうしたものをつなぐ道(みち)もありました。
竪穴住居
平地式住居
平地式住居
-豪族(ごうぞく)の家「豪族居館(きょかん)」-
豪族居館 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)に葬(ほうむ)られるような人が住(す)んでいたような豪族の家は、同じ群馬県の三ツ寺1遺跡(みつでらいちいせき)で見つかっています。
一辺(いっぺん)86メートルの四角の館(やかた)で、濠(ほり)がまわります。
濠の斜面(しゃめん)には石が貼(は)られ、中にも何重(なんじゅう)にも柵(さく)がまわります。
内側には穴を掘ってそこに柱を立て屋根をかける掘立柱(ほったてばしら)建物と竪穴住居が建っていました。
これらの建物といっしょに、広場、井戸(いど)、水道橋(すいどうばし)、石を敷(し)いたまつりの場所などがあります。めずらしいものとしては、銅の品物をつくったときの道具(どうぐ)、鉄鍛冶(てつかじ)の道具、まつりの道具などが出土(しゅつど)しています。
このほかに、掘立柱建物がずらりとならぶ倉庫群(そうこぐん)、埴輪(はにわ)つくり・須恵器(すえき)つくり・玉つくり・塩(しお)つくりのムラなどがあります。
豪族居館
掘立柱建物
掘立柱建物

≪家の中、広さ、ようす≫

竪穴住居の中 弥生時代からつづく竪穴住居は、掘(ほ)りくぼめる穴のかたちが丸から四角に変わります。
また、弥生時代には家のまんなかにあって、火の中に土器をそのままおいてお湯(ゆ)を沸(わ)かしたりする炉(ろ)でした。
古墳時代には家の端(はし)の方に甕(かめ)などをかけるための竃(かまど)というものをつくりました。
福岡県(ふくおかけん)野黒坂遺跡(のぐろざかいせき)の一辺4.5mの四角い穴を掘りこんでつくった竪穴住居では、その竃の横に食器がまとめておかれていました。竃に甕がかかったままで、そのすぐ横に甕と壷(つぼ)がおかれていました。そして、さらにその横に棚(たな)の上にあったと考えられている蓋(ふた)のついた茶碗(ちゃわん)のような坏(つき)という食器が落ちてかたまっていました。坏は須恵器(すえき)が4組、土師器(はじき)が5組などがありました。この住居では4人から5人の人が住んでいたと考えられています。
竪穴住居の中(なか)
平地式住居の中
平地式住居の中(なか)

≪古墳時代の土器(どき)≫

土器 粘土(ねんど)でつくった焼き物(やきもの)のことを土器(どき)といいます。
古墳(こふん)時代の土器(どき)には、土師器(はじき)と須恵器(すえき)というものがあります。土師器は、弥生(やよい)時代から続(つづ)く、赤い色で、焚き火(たきび)のような火で焼(や)く野焼(のや)きのものです。湯(ゆ)を沸(わ)かしたりするのに便利(べんり)です。須恵器は、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝(つた)わった窯(かま)焼きの技術(ぎじゅつ)で焼かれたものです。色は灰色で、キンキンと音がするくらい、かたく焼きあがっています。
また、轆轤(ろくろ)という台がまわるものの上で、その回転(かいてん)を利用して、かたちをつくりました。水などをためるのに便利です。

≪古墳時代の服装≫

-髪(かみ)-
life07 男の人は髪の毛を耳の前のあたりで両方(りょうほう)に二つにまとめて紐(ひも)などでくくって留(と)めました。
女の人は頭の上で髪の毛を一つにまとめました。髪をリボンのような紐や櫛(くし)やかんざしで留めるときもあります。
-服(ふく)-
life08 男の人は上は、右前に布(ぬの)を合わせ、その端(はし)を紐で留めました。このような服のほとんどは女の人も着ました。下はズボンのようなものをはきました。
女の人は上は、布を輪(わ)のようにして、それを片方の肩(かた)からタスキのようにかけました。下はスカートのようなものをはきました。男の人もズボンのような上にスカートのようなものをつけるときもありました。
-装身具(そうしんぐ)-
life09 首飾(くびかざ)りなどの玉類(たまるい)、貝のかたちをまねた腕輪(うでわ)、帯(おび)にはりつける金色の飾り、金色の冠(かんむり)、沓(くつ)といった身に付けるもの。特に、耳飾りは縄文(じょうもん)時代にはあって、弥生(やよい)時代になくなりますが、古墳時代に新(あたら)しい形のものが朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から伝(つた)わってきます。
-持(も)ち物-
石でつくった指揮棒(しきぼう)のような杖(つえ)、鏡(かがみ)、剣(けん)、刀(かたな)、甲(よろい)、冑(かぶと)などがあります。

≪古墳時代の人口≫

奈良(なら)時代には戸籍(こせき)というものがあって、一つの家で何人という計算で8世紀(せいき)には日本の人口がおおよそ440~450万人であったのではないかといわれています。古墳時代はそれより少なかったでしょう。

≪古墳時代に朝鮮半島から伝わってきたものと日本独特のもの≫

4世紀(せいき)の終わりころから、中国大陸(ちゅうごくたいりく)や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から日本列島(にほんれっとう)に移(うつ)り住む人{渡来人(とらいじん)}が多くなりました。その渡来人によっていろいろな技術(ぎじゅつ)や知識(ちしき)が入ってきました。

-土木工事(どぼくこうじ)の技術(ぎじゅつ)-

正確(せいかく)に古墳をつくったり、大きな堀(ほり)をほるための技術が入ってきました。

-鉄の加工(かこう)の技術-

鉄板(てっぱん)をひろげ、折曲(おりま)げ、鋲(びょう)で留(と)めたりして、鉄を自由に形をつくる技術が入ってきました。

-焼(や)き物の技術-

須恵器(すえき)という器(うつわ)を窯(かま)で焼(や)く技術が入ってきました。

-馬に乗(の)る-

馬を飼(か)う、馬に乗るための鞍(くら)などの道具(どうぐ)をつくる技術、乗るための技術が入ってきました。

-金メッキの技術-

銅に金を焼(や)きつけしてメッキして、ものを飾(かざ)り立てる技術が入ってきました。

-漢字(かんじ)-

中国大陸や朝鮮半島の人々と話し合いをするのに、ごく一部の人ですが、漢字の読み書きができる人が必要(ひつよう)でした。また、日本列島の中でも、剣(けん)や刀(かたな)、鏡(かがみ)に漢字を書き、人々にその内容(ないよう)を伝(つた)えました。

-仏教(ぶっきょう)、儒教(じゅきょう)の教え-

漢字の読み書きなどができる人がやってくるとともに、その人たちが仏教(ぶっきょう)や儒教(じゅきょう)のようないろいろな考(かんが)え方も伝えました。仏教の教えといっしょに、古墳時代の終わりには、寺院建築(じいんけんちく)の技術が伝わりました。この技術は、建物(たてもの)の地盤(じばん)を固(かた)め、石の上に柱(はしら)を立て、瓦(かわら)を焼いて、屋根(やね)に葺(ふ)くといったいろいろなものがいっぱいあります。

こうした技術のほかにも、中国大陸や朝鮮半島の品物がどんどん古墳に入りました。そうしたものは、日本の人がもらって帰ったり、運ばれてきたりした交流(こうりゅう)の証拠(しょうこ)です。その中には渡来人が日本に来たときの服装(ふくそう)のままで古墳に葬(ほうむ)られたような人もいます。

-日本独特のもの-
帯 日本独特のものは、前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)があります。(最近では、朝鮮半島でもみつかっています)
また、中国では化粧道具(けしょうどうぐ)として使われた鏡(かがみ)が日本では宝物になったり、ふつうの服に飾りとして身に付けていた帯が甲(よろい)に付けられたりしました。米つくりの道具は、先に鉄を付けること以外はあまりかわりありません。
また、土器は須恵器が入ってきても、弥生(やよい)土器と同じような焼き方の土師器(はじき)はおもに湯(ゆ)を沸(わ)かしたりするのに使われました。